ユーラシア写真館  − Eurasia Photo Gallery


アジア館

中東・中央アジア&ロシア - Middle East, Central Asia and Russia
イスラエル/パ レスチナ −   Israel/Palestine

159.キリストの受難−3:聖墳墓教会−エルサレム(イスラエル・パレスチ ナ) - Passion of Christ - 3: Church of the Holy Sepulchre, Jerusalem, Israel / Palestine (July 13, 2008) 
 エルサレムは、ユダヤ教を批判して独自の宗教観をもつキリストが、最後に命を堵してやってきた場所である。しかし結果は捕らえられて、断 罪さ れ、十字架を背負わされ、ゴルゴだの丘で絶命する。それが悲しみの道だ。キリストはゴルゴダの丘で十字架に磔にされ、そこで絶命するが、3日後に復活す る。その丘にはローマ時代(3世紀)に教会が建てられた。それが聖墳墓教会である。エルサレムは宗教色の強い都市ではあるが、その中でも聖墳墓教会はとり わけそうなのかもしれない。


139.キリストの受難−2:悲しみの道−エルサレム(イスラエル・パレスチ ナ) - Passion of Christ - 2: Via Doloroso, Jerusalem, Israel / Palestine (December 7, 2007) 
 エルサレムはもともとユダヤ王が基礎をつくった町だが、そこに宗教改革者としてイエス・キリストが登場する。キリストはユダヤ教徒が自分 を異端者として狙っていることを知りつつ、敢えてエルサレムに上がる。そして捕らえられ、裁判にかけら れ死刑を宣告される。茨を載せられ、十字架を背負わされ、町を引き回される。最後はゴルゴダの丘で息途絶えるのだが、後にオリーブ山から復活する。そのキ リスト教の成立にとても重要な役割を果たしたのが、キリストが十字を背負って歩いた道、悲しみの道である。今では、普通に商店が並ぶ道だが、所々にステー ション(留)と呼ばれるキリスト由来の場所があり、そのステーションを 辿りながら悲しみの道を歩くことができる。


138.キリストの受難−1:オリーブ山(エルサレム、イスラエル・パレスチ ナ) - The Passion of Jesus, 1: Mount Olive, Jerusalem, Israel / Palestine (November 17, 2007) 
 今回を含めて、おそらく3回の構成で、キリストの最期に関わる3つの場所を取り上げようと思う。最初はオリーブ山。オ リーブ山はキリストが何度も何度も帰ってくる場所だった。そして、処刑の前日さえもここオリーブ山のゲッセマネにキリストは居た。そして密告。キリス トが捕らえられたのもゲッセマネの一角だ。ゲッセマネとはオリーブの搾り場だったという。ここには今でもオリーブの老木がある。オ リーブ山からのエルサレムの眺めは素晴らしい。エルサレム見学の最初は、オリーブ山から町を見下ろすに限る。
 なお、写真館111の写真をこのシリーズで使うため、写真館111は閉鎖しました。


137.モダン・アートな町並み−テルアビブ(イスラエル) - A City of Modern Art, Tel Aviv, Israel (November 10, 2007) 
 テルアビブの町の印象を一言でいえば、モダン・アートな町ということかもしれない。町中がちょいとファンキーなアートで飾られているの だ。そ の中心に位置しているのは、テルアビブ美術館だろう。ユダヤ人画家・シャガールの収蔵が多いのは特徴的だが、それに限らず世界中のさまざまな美術品を幅広 く展示していて、見ごたえがある。写真展も充実している。町に出ても、アートは溢れる一方だ。特にカルメル市場の裏道理などは、通りそのものを芸術家に占 領されてしまったような感じだ。海岸沿いは若者中心のポップな町。町が美術館の屋外展示場のようだ、とい えばいいのかもしれない。今回は写真をお見せできないが、建築もなかなかパンクなものが多い。


135.東か西か−パレスチナのエルサレム(イスラエル・パレスチナ) - East or West, Palestinians and Jerusalem, Israel / Palestine (October 23, 2007) 
 エルサレムは「平和の町」(イルシャルーム)というヘブライ語がその名前の起源という節が有力だ。しかし実際には、キリスト教・ユダヤ 教・イスラム教の聖 地が重合するこの小さい町を巡っては、骨肉の争いが行われてきた。第2次大戦後、エルサレムは東西に分断されたものの、今は東・西エルサレムともにイスラ エルの管轄下にある。東西エルサレムの中間にある旧市街もパレスチナ人、イスラエル人、さらにはアルメニア人な どが地区ごとに分かれて共住している。今日は、エルサレム旧市街のなかでも、パレスチナ人の多い町を歩いてみよう。そこは、スーク(市場)で色とりどりの 果物や、焼きたてのスイーツが溢れる、アラブの世界なのだ。


134.ダビデの町−エルサレムを行く(イスラエル・パレスチナ) - A Walk in the City of David, Jerusalem, Israel / Palestine (October 5, 2007) 
 エルサレムには、ユダヤ人地区、パレスチナ人地区、アルメニア人地区などの地区があって、それぞれの民族の人々がそれぞれの地区に住ん でいる。地区に境 があるわけではないが、たとえばユダヤ人地区に行くとシナゴーグ(ユダヤ教会)があり、必然的にヘブライ文字が多く見られる。パレスチナ人地区ではアラビ ア語が多いし、イスラム教徒のベールも多く見られる。という訳で、エルサレムは民族が場所ごとに別れ住んでいる都市、ということが言えるかもしれない。今 日は、そのなかでユダヤ人地区を歩いてみた。大体の場所でいえば、聖墳墓教会から西の方、といえばあまり外れていないだろうと思う。


133.ある日、町を歩き回ってみた・ラマラ (パレスチナ)-One Day I Walked around in the City, Ramallah, Palestine (September 29, 2007) 
 パレスチナの「首都」ラマラ。この町の滞在もだいぶ長くなってきた。町に慣れると、旧市街地の古い町並みや、新しい町の繁華街をよく歩い た。旧市街は半分くらいはキリスト教徒ではないかと思う。旧市街には、ギリシャ正教の古い教会とカトリックの教会が坂の上のと下 にあった。ギリシャ正教の教会のご近所はイスラムのモスクだ。異教徒たちが気を使いながら共存するのが、ラマラ旧市街だ。そのためか、人々はオープンで優 しかった。ラマラは小さい町だが、ときに映画祭や音楽祭も開かれる。特にモーツアルト音楽祭で聴いたレクイエムは心をゆすぶられる演奏だった。こうした普 通な生活が邪魔されずに続くような安定した政治体制が望まれる。


131.普通の町の普通の人々・ラマラ (パレスチナ)- Ordinary People in an Ordinary City, Ramallah, Palestine (September 15, 2007) 
  パレスチナ、と聞くと紛争地、戦乱の国というイメージが強いのだろうな、と思う。パレスチナとイスラエルの弛まぬ 紛 争、ロケット弾をぶっ放しただの、それがどっかに命中したのといったニュースが飛び交っていれば、それはやむを得ないことだ。しかし、それはパレスチナの 実情の、ほんのひとこまに過ぎない。ラマラの名前は、ラム・アッラーと分解され、アラーの場所という意味なのだそうだ。この町は至って平和だった。2ヶ月 近く滞在したが、危険な目にはほと んどあわなかった。もちろん、もしも何かが起これば平和ではいられない、という意味で薄氷の上の平和なのかもしれない。平和の基礎がしっかりと固まること を心から祈る。


124.地中海に沈みゆく夕日・ジャッファ(イスラエル - The Sun Setting in the Mediterranean, Jaffa, Israel (May 4, 2007) 
 夕方6時前にジャッファの時計塔の近くにあるオールドジャッファ・ホステルという宿にチェックインした。ホテルとい うようりもホステルという呼び名が ぴったりする宿で、建物も古くて味があり、壁には昔の写真が飾られている。チェックインしたらすぎに町に出た。前に一度歩いているから、大体の方向はわか る。とにかくも時計塔に行けば、あとは簡単だ。旧市街をしばらく歩いているうちに、陽が傾いてきた。浜辺に下りる階段の上あたりで、地中海に陽が落ちてい くようすを見ていた。いつの間にか、浜辺のあたりにはかなりの数の人々が来ていた。日没の後に空を見上げると、青と赤が交じり合った微妙な色のグラデー ションがバックライトのように古い町を照らしていた


110.地中海の古き港町・ジャッファ(イ スラエル) - An Ancient Port City on the Mediterranean, Jaffa, Israel (December 18, 2006) 
 テルアビブはイスラエルの首都みたいな都市だが、この都市は 建国後に人工的に作った新しい町だ。だからどこもかしこもピカピカでなんだかつまらない。そこで、テルアビブができる何千年も前からあったという港町、 ジャッファにいってきた。読み方がいろいろあって、ヨッフォともヤッフォとも言う。テルアビブの南側に隣接していて、今はテルアビブ・ジャッファ市と、二 つが合わさって一つの町となっている。テルアビブの中心からタクシーでも15分ほどの場所だ。今のジャッファは城壁に囲まれた坂と路地が多い街だ。海辺だ が小高い丘になっているから、海はあち こちから見える。

エジプト −  Egypt

167.砂漠のオアシスと地底の湖・ ファユーム(エジプト)- Oasis in Desert and Lakes on the Bottom of Earth, Fayoum, Egypt  (October 13, 2008)
 ファユムを流れるユスフ運河は、ナイル川の水を上流で分岐させて引き込んだものだ。ファユームは陥没してできた窪地 だから、ナイル川の水は自然に流れてファユームの窪地に流れ込み、そこを穀倉地に変えた。古代エジプトの中王国時代、4800年ほど前の話だ。ユスフ運河 はファユームの町を通りすぎてしばらく行ったあたりで、多くの小運 河に分岐する。小運河は農地に水を届け、いくばくかの残余の水が窪地の底にあるカルン湖に流れ込む。


166.砂漠の町・二題―サーン・エル・ハガル&アブ・ミーナー(エジプト) - Two Sites in the Desert, San El Hagar & Abu Mena, Egypt (October 5, 2008)
 エジプトの首都カイロに長期滞在していたころ、週末になるとどこに行こうかと思案していた。たいていは金曜日が一日 だけ休日ということが多 かったので、日帰りでいける場所を探すことになる。アレクサンドリアやスエズ、ポートサイード、ファユームあたりが行きやすいが、これらの場所を一通り 回ってしまった。すると次が難しい。ガイドブックの隅っこを読んでいたときに発見したのが、今日のテーマ、サーン・エル・ハガルとアブ・ミーナーだ。二つ の町に共通するのは、砂漠の真っ只中にあることと、カイロから直行のバスがないことだ。


163.アレクサンドロスとクレオパトラの町―アレクサンドリア(エジプト)- The City of Alexander the Great and Cleopatra, Alexandria, Egypt (August 17, 2008)
 アレクサンドリアは、エジプトの首都カイロから北に2時間あまり、地中海に面したエジプト第2の町だ。アレクサンド ロス王が東方遠征をした際にここを征服して自らの領土にし、地中海交易のための港を求め、このアレクサンドリアに都市と港湾を築く ことを決意した。アレクサンドロスは、ロードス島の建築家・ディノクラティスに都市計画を命じ、BC331年に着工された。アレクサンドリアといえば、も ひとり忘れてはならないのがクレオパトラだ。アレクサンドロス王から200年以上後の人だから、二人は当然会ってもい ないが、クレオパトラはアレクサンドロス王を慕い、その墓のそばに自分も埋めてほしいと願ったといわれる。ちなみに二人の墓は いずれも、まだ発見されていない。


162.地上最古の堤防の町・ファユーム(エジプト)- The Town with the World's Oldest Dykes, Fayoum, Egypt (August 10, 2008)
 およそ 4000年前の運河と堤防があるのがファユームから車で15分ほど下がったアル・ラフンという村だ。ラフン村に行くには、まずカイロかギザのミニバスの発 着場でファユーム行きのセルビス(ミニバス)を見つけて乗る。 ファユームについたらミニバスを乗り継ぐ。こうして2回、セルビスを乗りラフン村にたどり着いた。4000年前に築かれたユスフ運河にかかる橋を渡りラフ ン村に入る。しばらく町なかの道を進むと、町の中心だ。市がたって人が集まっている。そこから左右に蛇行しながら畑地のなかを通って いくのが堤防だ。畑地より4メートルほど高い。この堤防をずっと歩くと、中王国 時代のファラオ、センウスレト2世が建造したピラミッドに摺りつく。この堤防は、ユスフ運河の流末であるカルン湖に洪水の水が流入するのを止め、カルン湖 の湖畔を水没からすくい、農地として活用するために作られたもの だ。


160.ピラミッドとともに生きる人々 ―ギザ(エジプト) - People Living with Pyramids, Giza, Egypt (July 19, 2008)
 カイロといえばピラミッドなのだが、生きている町に興味のある私としては、どうも今ひとつ行きたいという気にならな い。それで気がついたのは、ピラミッド見るのじゃなくて、ピラミッドで暮らしている人々を見に行けばいいじゃん、ということ。 それで何度か足を運びました。人が住んでいるのは、スフィンクスの近く。ラクダやロバ、馬などの商売道具たちが一杯居ました。ピラミッドの近くでは観光客 相手にぼったくりの商売している彼らですが、根は優しい。集落では意地悪もされず、商売の相手とも見られず、邪魔もされずに楽しくお散歩しました。


157.都大路・バイナルカスラインを歩く ―カイロ・イスラム地区(エジプト) - A Walk in the Palace Lane, Islamic Cairo, Egypt (June 21, 2008)
 ユネスコの世界遺産にも指定されているカイロの歴史的な町並みの一つ、イスラム地区を南北に貫く子道がある。幅でい えば5メートルほどの路地で、車がすれ違えないくらいの道だ。その昔はこの道にそって王宮があったといい、 今でも都大路=バイナルカスラインと称される。ちなみにノーベル賞作家のナギーブ・マフーズの代表作の一つ に同名のものがある。マフーズもまた、イスラム地区で育った人だ。その道を歩いてみよう。最初は南のスヴェーラ門からスタートし、最後は一番北のフツーフ 門だ。ここから先は、いわば城外。都大 路はここまでだ。


156.死者とともに生きる ―死者の町・カイロ(エジプト) - Living with the Dead, City of the Dead, Cairo, Egypt (June 14, 2008)
 カイロの歴史的な町・イスラム地区に隣接して、死者の町という怖い名前の場所があ る。別にゾンビが出るわけじゃあない。ここはイ スラム地区が発展する中で、14世紀くらいからずっと墓地にされていた場所なのだ。死者の町には、いくつかの代表的な廟、つまり墓を兼ねた建物がある。な かでも カーイトゥベーイの墓とマスギドと呼ばれる建物が有名だ。これはエジプトの1ポンド札の絵柄になっている。死者の町の建物は、ドームが釣鐘のような形をし ていて、表面には細かい浮き彫りの装 飾がなされている。死者の町を歩いてみると、そこに住む生者たちはみな素朴で明るく優しい。


155.最古のピラミッドの村人たち ―サッカラ(エジプト) - People in the Village of th Oldest Pyramid, Sakkara Egypt (June 1, 2008)
 カイロ滞在の最後の祝日、サッカラにいくことにした。サッカラというのはカイロの南50キロほどの場所にある。エジ プトでももっとも古いといわれるジゼル王の階段ピラミッドが有名だ。最初にバスを乗り継いでサッカラの階段ピラミッドに行き、そこから歩くかバスに乗るか しててサッカラの町に行く。さらに足を伸ばして、近くにあるメン フィスに立ち寄ってから帰る。これがこの日の旅程のすべてだ。後は出たとこ勝負、人に聞いたりして何とか帰り着くだろう。おぼつかないときはタクシーに 乗っちゃえば、お金が解決してくれる。こう、いい加減な調子で旅は始まった。


152.二つの海を繋ぐスエズ運河 ― スエズ〜ポートサイド(エジプト) - The Suez Canal Connecting Two Seas, Suez - Port Said, Egypt (April 27, 2008)
 スエズ運河は地中海と紅海という二つの海を繋ぐ。逆の言い方をすれば、ユーラシア大陸とアフリカ大陸という二つの大 陸を隔てるといってもいい。長さは 160キロあまり、エジプトのシナイ半島の付け根のあたりの砂漠を開削した運河だ。エジプトに滞在する日々、ある週末に思い立ってスエズ運河を見に行っ た。南の紅海側のスエズと北の地中海側のポート・サイド、途中にはイスマーリヤやアル・カンターラ といった町がある。高速バスやタクシー、セルビス(相乗りタクシー)などを乗り継いでスエズめぐりを楽しんだ。


151.ナイル・デルタの農村から ―カイロ郊外(エジプト) - From a Village in The Nile Delta, Cairo Suburb, Egypt (April 27, 2008)
 エジプトは、国土の3%の可住地に97%の国民が住んでいるという。エジプトの可住地は薄茶色の砂漠に浮かぶ、緑色 の箒(ほうき)のような形をしている。首都カイロはナイル・デルタのヘッド、扇 の要の位置にある。そこで、今日はカイロから抜け出して郊外の農村にいってみようと思う。一回は事務所スタッフの若者クンの実家がある 村にお邪魔した。農村は、緑の畑の中にポッカリと浮かんだ島のようだ。水道も井戸に頼り、道もほとんど舗装していない。建物はたいていレンガ積みで塗装も していない。建物の屋上で鶏やアヒルを飼っていたりする。貧しいといえばそうなのだが、人々は明るく屈託がない。大都市カイロの違う素顔かもしれない。


147.ファラオの雄姿・カルナック神殿 ―ルクソール(エジプト)  - The Phraonic Grandeur - Karnak Temple, Luxor, Egypt (March 8, 2008)
 カルナック神殿はルクソール神殿の「本殿」ともいうべきもので、いわばルクソールの遺跡群の中心にあたる。カルナッ ク神殿は中王朝より2000年にもわ たって、建設・拡張・修復を繰り返してきたのだそうだ。カルナックに 関わったファラオたちは数多い、その中でもラムセス2世は大王とも称させるキング・オブ・キングスだ。カルナック神殿にはラムセス2世の足跡があちこちに 見られ る。ピラミッドや大スフィンクスなど、大造りで荒削りな造形を見慣れた目に、カルナック神殿の繊細かつ図学的な構成は目を見張るものがある。それではご一 緒 にツアーに出かけよう。


145.ナイルの贈り物 ―カイロ(エジプト) - The Gift of the Nile, Cairo, Egypt (February 23, 2008)
 エジプトはナイルの賜物である――そういったのはギリシャの 歴史家・旅行家のヘロドトスだ。エジプトを空からみると、エジプトは砂漠を示す薄茶色で覆われている。その例外が一本の 筋、つまりナイル川に沿った帯と、それが分岐する箒の先のようなデルタ地帯だ。この箒の柄と先がエジプトにおける可住地のほぼすべてだ。あとはいくばくか のオアシスがあるに過ぎない。だから、エジプトはナイルなしには生きていけない。ほとんどの都市はこの「箒」の緑色の中に含まれる。カイロにいるとあちこ ちでナイル川と遭遇する。ある時は岸辺から、ある時は橋から、ある時は河岸のホテルのルーフから、ある時は水上バスから、ナイルを眺めてみた。砂漠の中を 滔々と流れるナイル川、やっぱり不思議だ。


143.ハーン・ハリーリのいろいろな音 ―カイロ(エジプト) - Various Sounds in Khan Khalili, Cairo, Egypt (February 1, 2008)
 カイロのイスラム地区は歴史的な町並みとして世界遺産に指定されている。その中心 に位置するのが、フセイン寺院と広場で、高いミナレットが目印だ。この広場に繋がっている路地の一つがハーン・ハリーリだ。ハーンとは商隊宿のこと、ハ リーリは人名で、ハリーリの商隊宿ができたことによってこの地区が商店街として発展したというわけだ。ハーン・ハリーリは賑やかな路地だ。客引きの声やお 土産やおもちゃの音、観光客の発する外国の言葉、お祈りを誘うアザーンの声、などなど。この路地を歩 いていると、本当にいろいろな音が聞こえてくる。そんな音を思い出しながら写真を集めてみた。本当の音が聞きたい人は・・・・現地に行ってください。


141.ルクソール神殿の失われたオベリスク ―ルクソール(エジプ ト) - The Foregone Obelisque of the Luxor Temple, Luxor, Egypt (January 14, 2008)
 ルクソールの2回目は、市内にあるルクソール神殿を取り上げる。ルク ソールにはもう一つ、より大きなカルナック神殿があり、ルクソール神殿はカルナック神殿に付属したものといわれている。ここにはもともと2本のオベリスク (石で作った針のように尖った塔)があったのだが、その一本は1830年にフランス政府に寄贈され、今はパリのコンコルド広場に立っている。エジプトの遺 跡というと、それまでピラミッドのように巨大でのっぺりとしたものしか見ていなかったので、ルクソール神殿の繊細な彫り物や、列柱の並ぶ建築的な空間作り はハッとさせられた。


140.王家の黄昏 ―ルクソール西岸(エジプト) - The Twilight of the Kings, The West Bank of Luxor, Egypt (December 15, 2007)
 ルクソールというのは、中王朝というから紀元前16から11世紀くらいまでに栄えた都で ある。ルクソールは、川の東側に町があり、ほとんどのホテルもこちら側にある。対岸、つまりナイル川西岸は、王家の谷といわれ、中王朝時代の王や家臣たち の墓が、深い谷にかくまわれるようにしてある。王家の谷のほとんどの墓は、いつの時代にか盗掘にあい、金目の品は盗まれ、あるいはミイラさえも失われたり した。ところが20世紀初頭、ツタンカーメンの墓が、ほぼ無傷で発見された。有名な黄金のマスクもここから出土した。 つまり、ルクソールは生者は日の昇 る東、死者は日の沈む西ということのようだ。もちろん西にも盗掘で有名なクルナ村があって、地元の人が住んでいるから、一概にはいえないけれど。今回はル クソールの西岸、死者に近い場所を取り上げよう。


129.カイロの路地裏の雑踏から ―カイロ(エジプト) - From the Crowded Lanes of Cairo, Cairo, Egypt (August 6, 2007)
 カイロ市内は人が多い。都市圏の人口が1600万人くらいいるのだから、都心が少々込み合うのは仕方がないかもしれ ない。カイロの路地は、何かアラブ的というか、いやエジプト的とでもいうべきなのか、何か独特な香りというか雰囲気があるような気がする。露店で売られて いる さまざまな商品、イスラムの装束に身を包む買い物客、声高な売り口上。見上げればモスクの尖塔・ミナレットが聳え、足元を見れば猫がたむろしていたりす る。前回のカイロ出張では、いろいろなトラブルがあって引きこもりがちだったが、心機一転カイロの楽しい側面を見てみようと写真を集めてみた。


128.アールヌーヴォー建築めぐり ―カイロ(エジプト)  - Tour of Arts Nouveau Architecture, Cairo, Egypt (August 1, 2007)
 19世紀中ごろからスエズ運 河計画を巡って、エジプトはフランスやイギリスの干渉を受けることになる。1869年にスエズ運河がぶじ開通したが、その13年後にはイギリスはエジプト を実質的な植民地とした。イギリスのエジプト支配は、第二次世界大戦後の1956年にナセル大統領に就任し独立を獲得 するまで続いた。このおよそ100年間に、カイロにはヨーロッパ風の建築物が建ち並んだ。19世紀末にヨーロッパといえば、有機的に曲線を組み合わせ、自 由な装飾性が溢れるアールヌーヴォーが広がった時期である。カ イロの建築物にはアールヌーヴォーの香りのするものが多い。軽やかな曲線を取り入れた床や壁、自由に曲がり想像力を刺激する鉄の飾り、奥行きのある色合 い・・・.。今日は、カイロの19世紀から20世紀初頭の建築物を歩いてみた。


127.モハメッド・アリの見た夢―カイロ(エジプト)- The Dream of Mohamed Ali, Old Cairo, Egypt (July 22, 2007)
 カイロといえばピラミッド、スフィンクス。それはそうなのだが、カ イロ はイスラム教の創世記からずっと、イスラムの一つの中心地の機能を担ってきた都市といっていいだろう。それがイスラム地区といわれる一角だ。そのイスラム 地区をみおろるような丘の上に聖堂が建っている。19世紀、オスマントルコからの独立を勝ち取り、以降西洋風の街づくりに励んだモハメッ ド・アリの聖堂だ。その外観は、トルコ・イスタンブールのトプカプ宮殿を模したといわれる。ある休日、あまり期待もぜずにモハメッド・アリの聖堂に向かっ た。



122.キリスト教徒のエジプト・オールドカイロ(エジプト) - Christianity in Egypt, Old Cairo, Egypt (April 21, 2007)
 エジプトといえばイスラム教がまず頭に浮かぶ。ところがエジプトに はもう一つの顔がある。エジプトには古くからキリスト教徒がいるのだ。 イスラム教がこの地に浸透する以前からキリスト教徒はいたが、イスラムが広まるにつれてその布教の圧力から逃れるようにナイル中流域に移動していったとい う。そうしてイスラム化したエジプトに、わずかばかりだがキリスト教徒が残った。 エジプトに根付いたキリスト教をコプトと呼ぶ。その本拠地の一つがカイロの南部にあるオール ド・ カイロ地区である。オールドカイロはやはり他のカイロとは雰囲気が違う。宗教というのが町の雰囲気を大きく変えるというのは興味深い。


121.イスラム都 大路の賑わい・ハーンハリーリ・カイロ(エジプト) - The Main Street of Islamic Cairo, Khan Al-Khalili, Cairo, Egypt  (April 14, 2007)
 カイ ロ 市内にある世界遺産といえば唯一、イスラム歴史地区である。その中央部が今でも賑やかな市場(スーク)となっている。ハーン・ハリーリ、またはハーン・ア ルハリーリと呼ば れる。 ここはいわばイスラム地区の都大路なのだ。今日はそのハーン・ハリーリを歩いてみた。お土産物や スパイスが所狭し と並ぶハーンハリーリと、その北側にある金属加工の零細工場(こうば)が並ぶ地区。南側には昔ながらの衣料市場がある。その印象はと問われれば、ナチュラ ルな自然の色。アースカラーとでも言うのだろうか。洗練されたとは対極の、土の匂いが記憶に残った。


120.ナイルを計る・ナイロ メーター・カイロ(エジプト)- Measuring the Nile River, Nilometer, Cairo, Egyptt (April 7, 2007) 
 ナイロ・メーターということばがある。ナイル川と計測=メーターを 合わせた合成語 で、ナイルの計測所というような意味だ。ナイル流域には他にも 何箇所かナイロ・メーターが設置されていたらしい。ナイル川の水かさを何箇所かのナイロ・メーターで計り、なんらかの経験則から判断をして、その年の洪水 や作況を占ったという。カイロ市の南、ローダ島のナイロメーターは、716年に造られたものだという。ただし、同じこの場所にはそれよりも前の時代からナ イロメーターがあったという説もある。上を見上げると、あら まぁ、とても美しい装飾がなされていた。19世紀中葉、オスマントルコ時代のものだ。これだけでも見に来る価値がある。


112.エジプト王たちのナイ ル治水物語・ファユーム(エジプト)- The Story of Egyptian Kings and the River Nile, Fayoum, Egypt (January 1, 2007) 
 ナイルを治める者がエジプトを治める、という。しかし、今から数千 年前の時代において、ナイルを治めるとはいったいどういう意味だろうか。今から およそ4000年ほど前の時代に氾濫期のナイル川の水をカルン湖という湖にためて、その一帯を干拓したそうだ。その場所は、カイロの 南のファユームという都市の辺りだという。エジプトに着くと、時間を見つけて、カイロから車を飛ばして行ってみた。はたして、運河と、水を下流に漏らさな いための堤防がおよそ4000年前に建造され、今に引き継がれて いた。


108.歴史都市の一日・カイ ロ(エジプト)- A Day in the Historic City, Cairo, Egypt (November 4, 2006) 
 カイロには、キリスト教が定着した4世紀ころに築かれたオールド・ カイロ、さらに7世紀ころにイスラム教のなかで形成されたイスラム地区など、いろいろな時代の町並みが交じり合って成り立っている。そのエジプトを訪れる 機会があった。折からラマダン、断食月 である。周りの人々が日の出から日の入りまで食物や飲料の一切を口にしないときに、異教徒ではあるものの、やたらに食事したりごくごくと清涼飲料水を飲む ことははばかられる。というわけで私自身もプチ・ラマダンをしながら朝、夕に町をあるいてみた。

シリア −  Syria

91.三千年の古代都市・ダマ スカス(シリア)- The Ancient City of Three Thousand Years, Damascus, Syria (April 29, 2006) 
 シリアの首都・ダマスカスは、世界で「最古の首都」とか、「中東で 最古の都市」などの枕がつくことが多い。その歴史は紀元前3000年いの太古に遡る。ダマスカスが確立されたのは紀元前1100年ころ、アラム人の国の中 心、アラム・ダマスカスになって以来だという。多くの歴史的な都市が途中で放棄されたりしたのに対して、ダマスカスは以来、ずっと住み続けられてきた。世 界でも最古の一つ、とにもかくにもやたらに 古く美しい、古代市であるといって間違いないだろう。

カザフスタン − Kazakhstan

1.カザフスタンー大陸の短い夏 - The Short Summer of Continent, Kazakhstan (September 24, 2003)  
 ユーラシア(Eurasia)はヨーロッパとアジアの合成語。カザフスタンはユーラシアの国を標榜する。 その位置はちょうどユーラシア大陸の中央だ。
 カザフスタンは気温差の大きい大陸性気候だ。長く厳しい冬の後にやってくる夏はからりと暑く、短い。5月の初め、急速に気温が上り、ある日どこからか突 然、夏がやってくる。じきに気温は30度に達し、人々は短い夏を楽しむ。そして9月になると、早々に夏はいずこかへ去っていく。



2.大地も凍えるカザフスタンの冬 - The Freezing Winter of Kazakhstan (September 24, 2003)
 
ユーラシア大陸の中央部に位置するカザフスタンの冬は厳しい。最低気 温は時に零下30度を下回る。平原を渡る風は身体の熱の最後の一粒まで奪ってしまう。屋外の市場では、冷凍装置なしにカチカチに凍っていた。アイスクリー ムも溶けずに箱の上に並べられている。通りには雪かきをする人々が働く。どうしてこの酷寒の中で1時間近くも耐えられるのだろうか。
 人々は冬の凍える大地とともに生きてきた。それはこの国の日常の一部なのだ。



30.シルクロードのオアシス都市・アルマティ (カザフスタン) - An Oasis City, Almaty (Alma-Ata),Kazakhstan (March 27, 2004)
 
カザフスタンのアルマ ティはシルクロードのオアシス都市。アルマティは天山山脈の支脈であるアラタウ山脈の裾野にあり、山脈には標高4,000メートルを越える山もあるのだそ うだ。1997年に新首都アスタナに遷都するまでは、アルマティーが首都だった。そのためか町は首都の風格を感じさせる。ホテルの窓を開けると雪をいただ くアラタウ山脈の頂きが見える。山間で生まれた私には、山の見える暮らしはホッとする。

ロシア − Russia

32.海峡の向こうはロシア - サハリンOn the other side of the Channel is Russia - Sakhalin (April 10, 2004)
 
ロシアというと遥かか なたにある国というイメージがあるかもしれないが、実際はそうでもない。北海道最北の地・稚内の市内からは、ロシア・サハリンの山並みが海の向こうに見え る。稚内からおよそ40kmの宗谷海峡を渡ると、もうそこはロシアなのである。日本から一番近い外国、といってもいいかもしれない。北海道からちょっと足 を伸ばしてみてはいかがだろうか。この島は十分に行く価値がある。


東南アジア・南アジア - Southeastern and Southern Asia
インド − India

146.もの売る人々―ムンバイ、インド - Men Selling Things - Mumbai, India (March 1, 2007)
 ムンバイはインド屈指の経済都市という。ものを売ったり買ったりするのは、経済の基本 だから、今日はムンバイの市場で「もの売る人々」を特集します。ムンバイのマーケットはいくつかあるが、ぼくがよく出かけたのは、半島の突端に近いコラバ という地区のマーケット。ここは漁村に隣接しているから、魚も 多い。それから有名なのがクロフォード・マーケット。ここには市場の建物とは思えないほど立派な、古い石造の建物があるのだ。 もの売る人がいれば、ものを買う人もいる。そして、売られたものが料理されて人々の胃袋に納まり、飢えをしのぎ、あるいは栄養となって体を作りっていくこ とを考えると、市場は人間の暮らしに大事なものだ。


144.フォートは英連邦の香り―ムンバイ、インド - The Fort has a Tint of British Empire - Mumbai, India (February 16, 2007)
 フォートとは要塞のことだ。イギリス時代のムンバイの古い市街地の中央部分がフォート と呼ばれる。フォートには、大英帝国の栄華を感じさせる建物が多く残されている。その代表が駅だろう。フォートの北側にあるヴィクトリア・ターミナスと呼 ばれる鉄道 駅は、これが駅舎か、嘆息が漏れるほど、豪華である。駅の近くには、ムンバイ市庁などいくつかの公共の建物があるが、これらも駅と歩調を合わせるように、 華麗で美しい。東側の地区は、イギリス人の住宅のあった場所らしく、当時の高級な郊外住宅が並ぶ、瀟洒な地区だ。そこにはイギリスにあやかろうと、「ブリ タニア」という名前をつけた食堂さえもがある。 フォートは大英帝国の残り香があちこちにある。


142.街角はポップアート美術館―ムンバイ、インド - The City is Museum of Modern Art  - Mumbai, India (January 27, 2007)
 ムンバイというと、インドの金融中心というイメージがある。それはそれで正しいのだけ れど、もうひとつのムンバイの顔がアートの町だ。特にポップアートで 有名らしい。ある日曜日、アートを求めて町を歩いてみた。まず目指したのは、旧市街の真ん中あたりにある、プリンスオブウェールズ博物館。いえ、博物館を 見るのが目的ではなくて、この博物館の前の道には、さまざまな芸術家さんたちが作品を展示したり売ったりする、「美術館通り」が目的。この一帯には、小 さい美術館や画廊がいくつかあり、アートな町並みなのだ。道で油絵を売る人、神々しい宗教がを売る仙人のような人、道でポートレートを描く老人などなど。 アートな町歩きは楽しい。


136.アイランドシティの海と空―ムンバイ、インド - The Sea and Sky in Island City  - Mumbai, India (November 2, 2007)
 ムンバイの旧市街地は別名をアイランド・シティという。え、ムンバイって島だっけ?と いう疑問をお持ちの方はムンバイの歴史を追わなければならない。ムンバ イ(歴史的にはボンベイといったほうがいいが)は、もともと7つの島だった。島を削り海を埋める造成工事によって、7つの島は陸地に変り、インド亜大陸と 連結するにいたったのである。その名残りから、今でもムンバイの半島の突端にある旧市街の地区をアイランド・シティと呼ぶ。だから、ムンバイはどこに行っ ても海が見える。今日はムンバイで海と空を追いかけてみた。


132.エレファンタ島の人と犬―ムンバイ、インド - Humans and Dogs in Elephant Island - Mumbai, India (September 21, 2007)
 ボンベイにあるインド門のすぐ横にある船着場からおよそ一時間の船旅でエレ ファンタ島に行くことができる。エレファンタ島には洞窟がいくつかあり、その洞窟の壁面に石像が刻み込まれている。6−8世紀のものだという。エレファン タ島で驚くことは石像ばかりではない。やたらと動物が多いのだ。一番目に着くのは野良犬。道 端には犬の親子や兄弟、あるいは隣組のような犬たちが三々五々、一緒についてくる。それ から猿、これは公園管理人との間で仁義無き戦いの最中のようだ。それから牛、洞窟の脇で草を食んでいたりする。もちろん山羊もいる。人間の歴史と動物たち の今が交錯する、不思議な異次元空間だ。


126.ボンベイ英印建築散歩―ムンバイ、インド - British Architecture Walk in Bombay, Mumbai, India (June 30, 2007)
  ボンベイには英国殖民時代の建築物がたくさんある。 その代表例は鉄道駅ヴィクトリア・ターミナスだろう。これは単体で世界遺産に登録されている。ほかにも 教会やホテル、映画館など、英国の残り香を感じさせる建築物がボンベイには実に多い。町を歩いているとふと、名前を知らないふるい建物に出会ったりする。 20世紀の初頭にインド政庁がデリーに動くと、ボンベイが西の玄関口となり発展した。英国人の人口も多くなり、さまざまな建物が建てられた。その無数とも いえる建物の中から、 代表的ないくつを歩いてみた。


125.ある暑い日、ボンベイで―ムンバイ、インド - Once Upon a Hot Day in Bombay - Mumbai, India (June 16, 2007)
  ボンベイに3週間ほど滞在した。ボンベイという町 は、インドでいえばデリーに次ぐ商業都市だ。マハラシュトラ州の州都でもある。マハラシュトラとはマハラジャの州という意味だ。今日は、ムンバイに来て初 めて、丸一日休みが取れた。朝から町歩きをすることにした。町歩きは庶民の目線で、というのが私の主義だから、タクシーは使わ ず列車に乗る。チャーチゲート駅から鈍行列車にのり、市の北部にある、ヒンズー寺院やらイスラム寺院を訪ね、さらに半島の南の突端、コラバの漁港やその市 場を見て歩こうという計画だ。途中でへばったら、一度ホテルでシャワーを浴びて出直す。さて、ホテルから駅まで歩いて出発しよう。


117.亡き王妃の白亜なる墳墓―タージマハール、 アグラ・インド - White Tomb Hall for the Late Queen - Taj Mahal, Agra, India (February 3, 2007)
 インドのタージマハールといえば、17世紀にムガール帝国5代皇帝シャー・ジャハーン が建造した、インド・イ スラーム文化の傑出した建物だ。世界遺産にも登録されている。タージは愛する王妃ムムターズ・マハルの死(1630年)を悼んで建設したとされる。ムガー ル帝国は皇帝の浪費で財政破綻し、シャー・ジャハーン も晩年はアグラ城に幽閉されたという。インドはずいぶん前に3か月ほど滞在したことがあり、その時に一度、タージマハールを訪れたことがある。それ以来、 インドには縁がなかったのだが、 2006年に18年ぶりに1ヶ月ほど、インドに滞在する機会があった。仕事はカルカッタだったのだが、ある週末にタージマハールに行った。タージマハール は18年前とまったく変わっていなかった。


103.聖なる川の彼方へ―コルカタ・インド - Beyond the Holy River, Kolkata, India (September 16, 2006)
  カルカッタはフーグリ川に沿った都 市である。フーグリ川は、ガンガーの分流にあたる川だから聖なる川の流れを汲む。川を渡って向こう側にいってみた。向こう側のハオラー地区に行くには、 フーグリ川に架かる橋を渡るか、船に乗るしかない。橋は二つ あるが、その一つは巨大な鉄橋、ハオラー橋だ。ハオラーには船着場があって、大小さまざまな船で上下流の船着場まで行くことができる。船がよいのは、料金 が安いことに加え、川を眺めながら風に当たる贅沢。カルカッタはフーグリ川なしには考えられない。

 
100.カルカッタの雑踏から―コルカタ・インド - Down and Out in Calcutta, Kolkata, India (August 26, 2006)
 インドにはずいぶん昔に一度来た事があったが、カルカッタにくるのは今回が初めてだ。 カルカッタに到着して思ったのは、発展して変化するインドがあるとともに、目の前には路上で暮らす困窮した人がたくさんい る。外国人と見るとついてきては金をねだる多くの物乞いがいる。これもインドの現実なのだ。インドには急速に変わりつつあるものと変 わらぬものが、渾然と共存しているのかもしれない。

スリランカ − Sri Lanka

20.緑豊かな癒しの島・スリランカ  - The Green and Heeling Island, Sri Lanka (January 3, 2004)
 スリランカはインド洋に浮かぶ熱帯の島。5月から9月ころは雨期となり、島には恵み に雨が地面をぬらす。春のような暖かさの中で、樹木が蒼い葉を広げ る。「癒しの国」という表現もあるくらい、この国には優しさと豊かさがあふれている。


タイ − Thailand

174最強のタイ料理−バンコク美味いものめぐり(タイ) - The Very Best of Thai Food in Bangkok, Thailand (January 11, 2009)
 
旅先で美味しいレストランや、旨い食べ物と出会うと、それはもう、嬉し い。バンコクには数年前、長逗留したから、その時にあちこちの有名レストランに行ってみた。今日の特集は、僕のしっているタイ料理・旨いものを一挙ご紹介 し ちゃおうというもの。新年早々、お得な企画でしょぅ。ガイドブックに出ているような有名店から屋台店まで、なんでもありです。タイで美味しいものを食べる なら、屋台店がいいという説がある。バンコクのお昼ご飯は、たいていはそう いう屋台店に繰り出すことになる。そこでの定番は麺類やぶっかけ飯の類、値段は高くても50バーツ(100円ほど)だ。さてでかけまひょ か


148バンコク単線鉄道の旅― トンブリ&マハチャイ(タイ) - The Journey on the Single Track Railway, Thonburi & Mahachai, Thailand (April 5, 2008)
 
バンコクの鉄道で、タイ国 鉄の本線とつながっていない郊外電車、通称マハチャイ線がある。昔、バンコクに長期滞在していたころに思い立って、この鉄道でマハチャイ駅までいったこと がある。マハチャイは河口の町だけあって、シーフードが名 物だ。先月(2008年3月)にバンコクで半日ほど時間があいたので、ワンウェンヤイ駅の周辺を歩いてみた。この駅は駅の中にたくさんの店がある。という より、商 店街の中に線路を敷いたというような感じだ。こんど時間があったら、マハチャイでフェリーをわたり、サムートソンクラムまで単線鉄道&フェリー乗り継ぎの 旅ってのもいいな。


115タイ領内のクメール遺跡を歩く―タイ東北部(タイ) - A Walk for Khmer Ruins in Thailand, Northeast Region, Thailand (January 21, 2007)
 アンコールといえばカンボジア――それが普通の考え方。ところが、実はタイにもかな りの数のアンコール時代の遺跡がある。タイ 滞在中のある連休、タイ側からイサーンのアンコール遺跡見学をすることになった。プレア・ヴィヘー ルの神秘さは群を抜いていた。直線状の参道をまっすぐ進むと、最後は断崖絶壁の上に中央祠堂がある・・・こんな遺跡初めてみた。その断崖から見る緑あふれ るカンボジア平原の絶景。この遺跡は、このまま有名などにならないでほしいと思う反面、もっと多くの人に見て感動を分かち合いたい、とも思う。


109川向こうは下町の香り― トンブリ・バンコク(タイ) - The Downtown on the Riverside, Thonburi, Bangkok, Thailand (December 10, 2006)
 
バンコクはチャオプラヤ川の河口近くの低地にある。アユタヤの都がたびたびビルマに攻められ、新しい都とされたのがバンコクの対岸、トン ブリ地区だ。低地 を開発するために排水用の運河が掘られ、その土が宅地の造成の盛り土に利用された。バンコク側では後に、多くの運河が埋め立てられ大通りに変身しが、トン ブリ側では運河が網の目のように残った。トンブリには、田舎くさく人情味の感じられ る「下町」が今でもある。


102.仏塔のそそり立つ古都― アユタヤ(タイ) - The Ancient City with Towering Pagodas, Ayutthaya, Thailand (September 30, 2006)
 アユタヤは世界遺産に指定されたタイの古都だ。14世紀から18世紀までの400年あまり、アユタヤに王都が置かれた。ヒンドゥー教の影響を排して仏教 を広め、みずからも寺院を多数作った。バンコクから電車で行くならホアランプン駅か、あるいは市内北側のサムセン駅あたりに行って鈍行列車を待てばよい。 直行バスもあるが、風情の点では列車にはかなわない。もっとも帰りはバスの方が寝て帰れるから楽だ。



102.首都の胃袋・クロントイ市場― バンコク(タイ)- The Stomach of the Capital City - Klong Toei, Bangkok, Thailand (September 9, 2006)
 クロントイ市場はバンコクの中央市場だ。特に海産物が豊富で、値段も安いし種類も豊富だから、たくさん買い物をするときには便利な場所だ。ある朝、カメ ラを一台、首にぶらさげて隅から隅まで歩いてみた。早朝から市場は賑わっている。魚のほかに、エビやイカ、カニ、貝も豊富だ。切り身もあれば、丸のまま、 あるいは生きたまま泳いでいたりもする。野菜や調味料もたくさんあるから、この市場を一周すれば魚貝から肉、野菜、果物、調味料とタイ料理の必需品がすべ てそろう。



99.ファッションタウン・パトナムの臍(へそ)― バンコク(タイ)- The Landmark of Fashion Town - Pratunam, Bangkok, Thailand (August 19, 2006)
  バンコクにパトナムと呼ばれる衣料の町がある。町にはTシャツからポロシャ ツ、ワイシャツ、スーツにいたる様々な衣料の店が並ぶ。卸しの店も少なくないから、プロも買いにくるし、ごく普通の消費者も多い。パトナムがわかりやすい のは、どこにいても地上84階の、ペンシルのようなこのビルが見えることだろう。パトナムの臍(へそ)、といったら少々下品かな。最上階には回転する展望 台があるので、晴れた日に上がってみるのもいい。


96.スクンヴィット通り・繁華街物語・バン コク(タイ) - Story of the Commercial  Avenue, Sukumvit, Bangkok, Thailand (June 24, 2006)
 バンコクの繁華街といえばスクンヴィット 通りという人が多いだろう。東京でいえば新宿か 青山のような感じだ。このバンコク一 の繁華街、スクンヴィット通りを端から端まで歩いて見た。スクンヴィット通りには、高架鉄道・スカイトレインがまっすぐに貫いて走っているから、どこへいくのも渋滞知らずで便利だ。繁華 街とはいえ、高級デパートやホテルのわきに屋台店がでていたりするところがタイらしい。


95.古き仏蹟とベンジャロン焼き―ナコン・パトム(タイ) - An Old Buddhism Site and Benjarong Porcelain, Nakhon Pathon, Thailand (June 18, 2006)
 ナコン・パトンという町は古い仏蹟として知られ、本によっては「タイ最古の仏蹟」とするものもある。実は、このナコ ン・パトム、スコタイやアユタヤに王朝が確立される以前、ドヴァラーヴァティー(Dvaravati)という文明があったとされる。 もう一つ、ナコン・パトンが有名なのはベンジャロン焼きの絵付け工房が多いことだ。産地で安く仕入れるのもいいかもしれない。


93.もう一つの水上マーケッ ト(サムート・ソンクラム、タイ) - Another Floating Market, Samut Song Khram, Thailand (May 27, 2006)
 バンコクから西へ2時間ほど走ると、サムート・ソンクラムという元気がある町 がある。この町の中心部の運河 で、水上マーケットを復活し、お客さんが集まっている。タイで有名な水上マーケットといえばダムヌン・サドゥアックだが、ここは観光客に受けるような演出 が強いが、ここサムート・ソンクラムの水上マーケットは何もかもローカル色が強い。ちょっと田舎っぽい水上マーケットでのんびりと買い物をしたり、お菓子 やご飯を買い食いするのは、スローな週末の過ごし方として結構いける。


92.国王の建築世界へ(バン パイン・タイ)- Architectural World of the Kings, Bang Pa-In Palace, Thailand (May 6, 2006)
 バンコクから北へ1時間ほど、アユタヤの手前に小さい町がある。バンパインは、タイ では知らない人はいないくらい有名なのだが、それは国王の夏の離宮があるからだ。バンパインの再建に力を尽くしたのが、 ラーマIV世(1851−1868)、 ラーマV世(1868 – 1910)の父子だ。王は西洋建築を愛し、バンパイン宮殿にも見事な建物正面(ファサード)を持つ西洋建築が残されている。細部にまで心が行き届いてお り、 見事な建築世界をつくりだしている。


90.マーケット進化論(バン コク・タイ) - Evolution of the Market, Bangkok, Thailand (April 22, 2006)
 バンコクには無数のマーケットがある。天秤棒で担いでくる屋台がいくつか集った簡単なマーケットから、住宅団地に張 り付くマーケット、最近では郊外の環状道路にそって巨大なショッピングセンターが建設されるようになった。負けてはいられじと、都心部でのサイアームとい う地区で、東南アジアでも屈指の規模を誇る、パラゴン・ショッピングセンターがオープンした。さまざまなマーケットが賑やかに混在する姿は、活気溢れるタ イの今日を象徴しているかのように見えた。


88.古都・チェンマイの歩き 方(チェンマイ・タイ) - Where to Walk in the Ancient City, Chengmai, Thailand (April 1, 2006)
 チェンマイはランナー王国の王都であった古都である。旧市街を取り囲むように、一辺が2キロ弱、ほぼ正方形の堀が巡 らされた中がチェンマイの中心部だ。ここは寺院が多く、また由緒正しく格式の高いお寺も少なくない。旧市街は気長に構えれば十分に歩いて移動しても平気な 距離だ。夕方からはピン川(チャオプラヤ川の支流)に近い辺りのナイト・バザールを覗いてみるといいかもしれない。そして朝。寺院の多いチェンマイでは朝 の托鉢は欠かせない。また一日が始まる。


85.聖山の祈り―ドイ・ス テープ・チェンマイ(タイ) - Blessing at the Holy Mountain, Doi Suthep, Chengmai, Thailand (March 4, 2006)
 北タイを制したランナー王国の王都・ チェンマイから西に15kmほどの場所にあるドーイ・ステープ山は、14世紀後半に開山されたチェンマイの守護神ともいうべき聖山だ。山頂に は大きな純金に塗られた仏塔があり、人々は無心に祈りをささげる。またこの一帯は少数民族(山岳民族とも呼ばれる)が多く暮らす地域でもある。 ドイステープ山から小一時間、モン族が暮らす村にいたる。山間地にへばりつくように広がる村落は、私のふるさとである懐かしい山里の風景を思 い出した。


84.バンコクのさまざまな夜 ―バンコク(タイ) - Bangkok at Night, Bangkok, Thailand (February 18, 2006)
 バンコクの夜は賑やかだ。普通にイメージされるナイト・ライフといえば食事や飲み屋、さらにはもっと品のよろしくな いカラオケ・ハ ウスやオカマ・ショーまで、各種のお遊びが夜の街には溢れている。私はといえば、かな り健全路線だ。まずは刻々と空の色が変化する暮色を楽しむ。バンコクの夜といえばロックやクラシックのコンサートも盛んだ。夜のお祭りといえば、11月の 満月にあわせて開催される灯篭流し、ロイクラトーンだ。そのヘムレン流、バンコクの夜の楽しみ方を紹介するとしよう。


83.百円の楽園―パークロン 市場・バンコク(タイ) - One Dollar Paradise - Paak Klong Market, Bangkok, Thailand (February 4, 2006)
 バンコクの長期滞在中、私のお気に入りはパークロン市場の散歩だ。市内を縦貫する運 河がチャオプラヤ川に合流する近辺にある。私はひそかに この場所を「百円の楽園」と呼んでいる。市バスの往復やミネラル・ウォーター、少々食いしてもで40バーツで半日遊べる。つまり1ドル、日本円で100円 くらいだ。パークロン市場は青果と切花が得意分野だ。切花は栄転やら新任、もちろん結婚や 出産など、さまざまなお祝いの贈答に使われる。花のある生活というのは文化的、と思う。


72.色とりどりの水上マー ケット―ダムヌン・サドゥアック(タイ)- A Colorful Floating Market in Damnoen Saduak, Thailand (July 24, 2005)
 バンコクから南西の方に2時間ほど行ったところに、タ イの代表的 な水上マーケット、ダムヌン・サドゥアックがあります。あ る週末の日曜日、ここに行くことにしました。水上マーケットは朝が勝負ですから、バンコクを早朝に出発しなくてはいけませ ん。途中、特 産の塩田で塩を買ったりしながら、9時過ぎに水上マーケットに到着。舟をチャーターして運河を巡るります。色とりどりの果物を眺めながら、おばさんの手漕 ぎの ボートで風に吹かれる。なんともゆったり、のんびりの休日でした。


68.下町・長屋街の一日―タイ・バンコク - A Day in the Life of Downtown Row Houses - Bangkok, Thailand (April 16, 2005)
 このところ、バンコク市内の北部の長屋の街ディ ンデン地区にアパートを借りています。アパートの前が目抜き通りで、朝夕車が溢れ、歩道はあるものの料 理や惣菜の屋台が出て歩きにくいこと。目抜き通りに繋がる路地はほとんどが行き止まりで、縫製や クリーニングなどの町工場が軒を連ねています。ディンデン市場は歩いて10分ほどのところで、休みの日など路地に入り、私しか知らない抜け道を通ってお散 歩しました。長屋街は、懐かしいような暖かい空気が充満しています。


66.中国人の華やかなる街―タイ・バンコク - A Festive Bangkok - Chinese Style - Bangkok, Thailand (April 2, 2005)
タイ全国の華僑人口は700万人とも言われる。 特に17世紀以降、中国人がアジア 各地で商業を展開する中で シャム湾への華南から多くの中国人が渡来したというバンコクにもいわゆる中華街といわれるヤワラー通りなど、中国文化が華やかに開花 する中国人の街がいくつかある。今日は、そんな華人の泰国首都曼谷(バンコク)を歩いてみよう。折りも折り、中国人のお正月・春節の真っ最中。街は真っ赤 に染まった。


65.バンコクと7つの個性的な博物館(タイ)- Bangkok and its Seven Museums with a Style - Bangkok, Thailand (March 12, 2005)
博物館が絵や工芸を見る場所というのは当たり前のことですが、文化の香りの漂う空間でのんびりと過ごす、そんな楽 しみ方もあるのではないでしょうか。バンコク 滞在も長くなってきましたので、そんなことを考えながらバンコクの博物館めぐりをしてみました。入場料は130〜250円くらい、それで文化の香りの漂う 空間を使い放題。これってお得なのではないでしょうか。


63.戦場に架ける橋・クワイ川鉄橋の今―カンチャナブリ(タイ)- The Bridge on the River Kwai Today- Kanchanaburi, Thailand (February 08, 2005) 
クワイ川鉄橋は、太平洋戦争中に日本軍が占領したビ ルマ(現在の ミャンマー)への補給路とした「泰緬鉄道」の一部だ。場所はバン コクから時間あまり西の方に行った、カンチャナブリという町の近くだ。泰緬鉄道は、タイ側はカンチャナブリを通って山に入るまで区間がタイ国鉄によって運 行 されています。不幸な生い立ちの鉄道ですが、現在はバンコクからカンチャナブリを繋ぎ、クワイ川鉄橋を渡り、さらに終点のナムトック駅まで、週末になると 多くの外国人やタイ人の観光客を運ぶ人気路線です。

 
61.伝統工芸の島ーノンタブリ県コークレット(タイ)Handicraft Island - Koh Kret, Nontaburi, Thailand (January 22, 2005) 
 不思議と大陸アジアの大河にある中州状の島には
焼き物や織物、彫り物といった伝統工芸の集落があることが多い。クレット島は、釉を使わない赤い素焼きの陶器の生産地だ。島にはも ともとモン族が住んでいて、窯が 数箇所あり、焼き物を売るお店が無数にある。島には自動車が走れるような道路はなく、幅2mくらいの歩道が島を一周(約5 キロくらいか)している。チャオプラヤ川を渡った瞬間にタイムスリップしたような感覚に捕らえられる、不可思議にして魅力的な島。

4.古き良きバンコク - The Good Old Bangkok (October 10, 2003)
 
タイ人は信心深い国民だ。小乗仏教はタイの生活に馴染んでいる。バン コクは高層ビルやホテルが聳え、高架電車(Sky Train)が走る現代的な大都市である。しかし、一方で一つ路地を入ると、昔ながらの田舎っぽい空気のあるところも多い。仏様との距離も近い。
 このシリーズではバンコクの 昔ながらの古き良き都市の面影を取り上げてみたい。




3.天使の都 バンコクの優しき人々 - The City of Angels - Gentle People of Bangkok (September 24, 2003)
 
タイの首都・バンコク。タイ語ではクルンテープ―天使の都という意味 の町だ。王宮や寺院などの名所旧跡とショッピング、夜の歓楽街ばかりが話題に上ることが多い。しかし、この町の本当の魅力はその町に暮らす優しき人々では なかろうか。
 活動的なバンコクの町と、活き活きと暮らす人々をスナップした。



ラオス Lao


179.二つの満月の夜のお祭りーラオス・ビエンチャン - Two Full Moon Festivals Vientiane, Laos (Febrary 6, 2011) 
 今日はラオスの首都・ビエンチャンで見た満月のお祭りを2題、紹介する。まずはロイ・ カトーン。これは水面にバナナの葉などで作ったカトーン(灯篭)に蝋燭の灯を点して川などに流すものだ。そしてもうひとつのお祭りが、タトルアン祭りた。 毎年、秋の満月に行われる。タトルアン祭りは、ラオス中のお坊さんが集まったのではないかと思われるくらい、多数のお坊さんが橙色の袈裟 を身にまとい、訪れた人々はその夥しいお坊さんに喜捨する、というものだ。これだけのお坊さんに喜捨したら、きっといいことがあるだろう・・・。


78.世界遺産の町の日常ーラオス・ルアンプラバン - Daily Life in the World Heritage City, Luang Prabang, Laos (November 26, 2005) 
ルアンプラバンはランサン王国の首都がおかれた古都だ。メ コン川とその支流であるカーン川に挟 まれ、周りは丘に囲まれたひっそりとした佇まい。古いお寺やフランスの殖民建築、さらには中国風のショップハウスに混じっ てラオス風の高床住宅があったりする。世界遺産の指定根拠は、歴史的に積み重ねられて出来上がった多様な建築空間、ということらしい。驚くよ うな建築物があるわけでもないが、いにしえの時の流れを感じさせるルアンプラバンには悠久の時がたゆたゆと流れる。


73.ありふれた素敵な田舎ーラオ ス・タケック  − Commonplace, but Enchanting Countryside, Thakhek, Laos (July 31, 2005)
 
ラオスに16年ぶりに再 訪したのだが、それほど変わっているようには見えなかった。素朴な人々の笑顔、のんびりとした生活のリズム、緑溢れる美しい国土、いずれもこの国らし い。タケックはどこにでもありそうなありふれた場所では あるが、なぜか懐かしく心惹かれる大いなる田舎だった。近代的なビルがあるわけでも、高速鉄道があるわけでもないが、人々は豊に、幸せそうに暮らしている ように見えた。開発っていったいなんだろうか―そんな疑問がふと頭をよぎった。

23.季 節風の恵み ラオス・ヴィエンチャン - Gift of Monsoon, Vientiane, Laos (January 31, 2004)
 ラオスは熱帯モンスーンの国。タイやベトナムに比べて、ラオスの雨は激しい。雨期に は時に町中を水浸しにする驟雨が見舞う。しかし通りが水に沈んでもラ オスの人々は平然としている。むしろ子供たちは楽しそうに水遊びの興じていたりする。
 それもそうかもしれない。ラオスの経済はモンスーンがもたらす雨に頼っている。



22.素朴で笑顔が素敵な人々 ラオス・ヴィエンチャン - People with Ingenuous and Enchanting Smiles, Vientiane, Laos (January 24, 2004) 
 ラオスは海のない内陸国で、閉ざされた国というような印象があるが、人々は人懐こく て純朴だ。
自 分がまだ三十そこそこだったせいもあるが、これほど楽しい国は他に経験したことがない。なによりもラオスの人々はとても優しい。そしてよく笑う。素朴にし て素敵な微笑みだ。


21.大地の恵みに支えられる生活 ラオス・ヴィエンチャン - Life with the Gift from the Earth, Vientiane, Laos (January10, 2004)
 ラオス、正確に言えばラオ人民民主主義共和国はベトナムとタイ、中国雲南省、カンボ ジア、ミャンマーにはさまれた、内陸の国だ。1989年、一年弱この 国に暮らした。
 大河メコンが流れ、農業や林業が産業の主体である。川で魚を採り、田を耕し、果実を摘む。いわば自然に恵みに支えられた国といえるかもしれない。所得で いえば世界でも最貧国のひとつだが、暮らしている人々は明るく、楽しそうなのである。物乞いをする人もほとんど見かけない。人々は助け合いながら、つつま しやかに暮らしている。


カンボジア − Cambodia

177.森の遺跡の神秘―サンボー・プレイクック・カンポントム - Wonder of The Ruin in the Forest, Sambor Prey Kuk, Kampong Thom (March 20, 2010)
 カンボジアにはアンコール・ワットの遺跡群というユネスコの世界遺産があり、それに加 えて昨年、タイとの国境にあるプレア・ビヘールが世界遺産に登録された。次の世界遺産の候補としていくつかの遺跡の名前が挙がっているが、その中でもっと も世界遺産指定に近いといわれているのがサンボー・プレイクックだ。サンボー・プレイクック1998年から早稲田大学のチームが発掘・修復に関わってい る。そのため、遺跡に関するデータが蓄積されているのが、世界遺産最短といわれるゆえんの一つだ。まだ、あまり有名な遺跡ではないけれど、世界遺産の指定 されるとどっと人が行くと思うので、その前にひっそりと、ゆっくりと訪問しておこう。この遺跡はほんとうに魅力的だ。


176.焼き物の町・カンポンチュナン(カンボジア) - The Clay Pottery Town, Kanpong Chhnang, Cambodia (May 10, 2009)
 カンボジアでは、素焼きの焼き物といえばカンポン・チュナンです。プノンペン の町にも時々、牛が引く荷車に素焼きの土鍋が満載された行商を見かけることがあります。それでカンポン・チュナンの焼き物の村、オンドン・ロッシーへ。村 の真ん中に陶芸センターがあります。外国人も観光客もパラパラ訪れますが、地元の人が陶器をかったりもしています。ここ で、案内を付けてくれて、村の中の焼き物をやっているお家を何軒かみて歩きました。言葉は通じないけれど、みんな喜んで製作風景を見せてくれました。村は ごく普通の村で、この村を歩いているだけでも楽しいですね。


175.トンレサップ湖の出口の町・カンポンチュナン(カンボジア) - City at the Outlet of Tonle Sap Lake, Kampong Chhnang, Cambodia (May 2, 2009)
 今年(2009年)は、久しぶりにカンボジアの仕事が入った。大好きなカンボジアにまた 来られると思うと、嬉しい。ずっと行ってみたいと思っていたカンポンチュナンに、今回、始めて行った。カンポンチュナンはユニークだ。その立地が、トンレ サップ湖 の首根っこのところにあることだ。トンレサップ湖は巨大な内陸湖で、漁業や舟運が盛んだから、カンポンチュナンにはいろいろな物資が集まってくることにな るトンレサップ湖の水位は、メコン河の水位につれて一年周期で水位が上がって下 がる。多くの家は長い木の杭の上に載っていて、乾季にはその杭がニョキニョキと空中の家を支えている。雨季には家のある高さまで水位が上がることになる。


158.陸の国境の町の情緒・ポイペット(カンボジア)  - Atmosphere of Border Town, Poipet, Cambodia (July 5, 2008)
 カンボジアには何度もいったが、いつもバンコクから飛行機というパターン。今 回は、国境の町ポイペットに用事があったので、初めて陸路でいったタイ側の国境にはトラックやトレーラーが列をなしている。国境をこえてカンボ ジア側ポイペットではトラックよりは荷車やオートバイが多く、牧歌的だ。タイではカジノは禁止されているが、カンボジ アでは合法的、というよりも禁じる法律が整備されていない。だから国境にはカジノを備えて高級ホテルがいくつもある。そういうところにはあまり用事はなの で、適当な安宿を見つけてチェックインして町にくりだしたらもう夕方だった。暮れなずむ国境の町は、人間的でほっとする。


153.セントラル・マーケット昼下がり、プノンペン(カンボジア)  - The Central Market in the Afternoon, Phnom Penh, Cambodia (May 17, 2008)
 もう5年ほど前にカンボジアの仕事をしていたから、そのころはプノンペン をよく歩いていた。最近はその仕事も終わってしまったので、あまり再訪の機会がなかったのだが、この3月にプノンペンにしばらくぶりに行った。あまりゆっく りと町を歩く時間はなかったので、目標を絞ってセントラル・マーケットを歩くことにした。市場は人々の日常の顔が見られるから、ぼくは市場歩きが好きだ。 もうひとつ、今回の市場歩きには目的があった。それはクメール(カンボジア)スイーツを食べることだ。カンボジアのスイーツというのは、それだけで一冊の 本がかけちゃうくらいの種類があるらしい。


149.アートが一杯―カンボジア・シムリアップ&プノンペン- The Artistic Cambodia - Siem Reap & Phnom Penh, Cambodia (April 12, 2008)
 カンボジアはアートが一杯。カンボジアの産業というと、いわゆるアパレル、縫 製業と観光。世界遺産アンコール遺跡が観光のメイン だが、カンボジアを訪れる外国人観光客は年間100万人を越える。その観光客に買ってもらおうと、工芸品の生産が盛んだ。アンコールにちなむ石造や木彫、 絹織物や焼き物もある。また、以前にも紹介したが、クメール伝統芸能である音楽や踊りもあって、これも外国人観光客にはエキゾチックで魅力的なものだろ う。カンボジアというと虐殺、内戦、地雷といったイメージが強いが、カンボジアの「今」はそんな暗いイメージからはか け離れている。


119.アンコール遺跡を歩く5;さまざまなる遺跡−郊外編―カンボジア・シム リアッップWalk in the Angkor Ruin 5; Various Ruins for Excursion- Siem Reap, Cambodia (February 17, 2007)
 アンコール遺跡を歩くシリーズも5回目、これでおしまいです。シムリアップか ら日帰りでいける、郊外の遺跡集です。トクトクやタクシーなどの足が必要です。ロリュオス遺跡群は国道6号線沿いに南東、つまりプノンペ ン方面に行ったところにあり、古い遺跡です。近いしもう少し行く人がいてもいいなと思います。また、バンテアイスレイの方向にあ る、バンテアイ・サムレも美しい遺跡です。ここは私の一押し遺跡。 アンコール見学は、できれば日数に余裕をもって、郊外まで足を伸ばすといいですよ。


116.丘と川と町、プノンペン(カンボジア) - The Hill, the River and the City, Phnom Penh, Cambodia (January 28, 2007)
 カンボジアというと、なんといってもアンコールというのが普通で、首都プノンペンは案外と通過されてしまう のかもしれない。たしかにこれといっ て観光の目玉となるようなものも少ない。プノンペンには観光 地の派手さはないが、しかし歩いていて実に楽しい。市場がたくさんあって個性的だし、 国立博物館も立派で収蔵品も一級品そろいだ。今回取り上げたいのは、プノンペンの名前の由来になった丘の寺ワットプノンと、なくてはならない舞台装置のメ コン川。だからタイトルは丘と川の町プノンペンとした。朝日がメコン川から立ち上る光景は、何度みてもすばらしい。丘と川と市場めぐりをするだけでも、プ ノンペンに行く価値はある。カンボジア好きの人、次はプノンペンにも足を伸ばそうよ。


113.アンコール遺跡を歩く4;さまざまなる遺跡−近郊編―カンボジア・シム リアップ - Walk in the Angkor Ruin 4; Various Ruins in the Vicinity- Siem Reap, Cambodia (January 6, 2007)
 ア ンコール遺跡といえばアンコールワット、アンコールトムを思い起こすのが普通だ。しかしアン コール遺跡は600年にも及ぶ長い歴史のなかで造営された、多数の遺跡の総体を指す。すこし時間に余裕があれば、ちょっとマイナーな遺跡も回ってみて、自 分だけのお気に入り遺跡を見つけるのがお薦めだ。まあ、いろいろな遺跡があるのだ!須弥山 (しゅみさん)を模したバプオンとそれに向かう空中参道、絡みあう蛇のように交錯した池のニアックポアン、崩れかけた石橋のスピアントマ、夕日の名所プノ ンバッケンなどなど。もっと他にもあるけど、それは自分で探してね。


106.フランスの残り香漂う町を行く―(カンボジア・シムリアップ) - Walk in the City with a Touch of French Ambience - Siem Reap, Cambodia (October 7, 2006)
 シムリアップは、アンコールが「発見」された19世紀末以降、アンコールの発掘や研 究、さらには観光とともに栄えた都市といってもいいだろう。20世紀の初頭、フランスの植民地支配が確立し、アンコールにも多くの人が訪れ、いわば宿場町 として栄えた。ここにフランスの殖民様式とも呼ばれる石造りの建築物が建てられたのは、おそらく1920年代だろう。それらの建物は、オールドマーケット の周辺に建てられた。フランスの残り香の感じられる古い建物のつくる街を歩いてみた。


101.アンコール遺跡を歩く3;プリアカーン&タプロム・僧院建築の 光と影―(カンボジア・シムリアップ) - Walk in the Angkor Ruin 3; Light and Shadow of Monastery Architecture - Preah Kahn & Ta Prom, Siem Reap, Cambodia (September 2, 2006)
 アンコール遺跡で好きなものはと問われると、プリアカーン、と答える。アンコールの基 本原理は、天に向かって石を積み上げて山のように上を目指す構築物的であると思う。それに対して、プリアカーンは真っすぐな回廊の奥深く、石枠が無限に連 なるように細長い空間を見せ、そこに光と影が交差していったりする。プリアカーンは、アンコールトムを建造させたジャヤヴァルマン7世王が、仏教の大学と して建立したものだ。王は仏に何を祈ったのだろうか。


98.アンコール遺跡を歩く2;アンコールトムの世 界―(カンボジア・シムリアップ)Walk in the Angkor Ruin 2; the Microcosmos of Angkor Thom, Siem Reap, Cambodia (August 8, 2006)
 アンコール・トムは独創的な建造物だ。その最大の特徴は、中央に位置するバイ ヨンにある、4面に巨大な顔が施された屹立する塔だろう。菩薩の顔とも、あるいは仏門に帰依した王自信の尊顔だという説がある。それまでのアンコールの建 造物が、ヒンズー教の宇宙感を表象したことに比べ、この主張の強い造形は異質だ。アンコール遺跡を総体として、インドのヒンズー教遺跡からはっきりと区別 し、クメール人の独創の証となるのが、アンコールワットとアンコールトムであるといえよう


97.プノンペン・市場めぐり(カンボジア) - Going Around Markets in Phnom Penh, Cambodia (July 1, 2006)
  市場というのは、都市の台所とかいわれる。食品を蓄えたり料理を作るという 意味で市場は都市の台所であり、都市の人々を食べさせてくれるとう意味では都市の食堂なのかもしれない。都市を知るためにはまず市場に行く。カンボジアの 首都、プノンペンの滞在もすこし長くなってきたころ、常宿を変えた。それを機に、それまであまり行かなかったオールド・マーケットやカンダール・マーケッ トに歩いて行くようになった。青果の多いマーケットには季節の野菜が色とりどりに、果物が香り豊かに並んでいた。


94.アンコール遺跡を歩く 1;悠久のアンコールワット(カンボジア・シムリアップ) - Walk in the Angkor Ruin 1; the Eternal Angkor Wat, Siem Reap, Cambodia (June 12, 2006)
  アンコールワットは12世紀前半に建造された、ピラミッド型の構造をもつ遺 跡である。台形をした3つの層が積み重ねられている。最上層には、四隅と中央に搭があり、これがアンコールワットのシルエットを作っている。膨大な量の石 材とラテライト・ブロックを積み上げ、上へ上へと伸びていくアンコールワットは、何か巨大な力を感じさせる。アンコールワットを訪れると世界観が変わる、 という人もいる。世 界遺産に値する、素晴らしい文化財だ。


89.つかの間の王都と彫金の 村(カンボジア・ウドン) - Temporal Royal Throne and Ciselement Village, Oudong, Cambodia (April 8, 2006)
 プノンペンから北西へ40kmにウドンという町がある。周辺はトンレサップ川にそった平地だが、遠 くからぽっこりとした丘が平地に突起して見えてくる。近づいていくとその丘には搭 のような建造物がいくつか角のように屹立している。このウドンがかつてクメール王国の王都であった都市だ。ウドンの近くの川沿いに中州の島、チェン島 がある。ここはは彫金の産地となっている。村のあちこちの家からカンカン・トントンと金属を叩き成型する音がしてくる。


82.伸縮自在の巨大湖・トンレサップ湖(カンボジ ア・シムリアップ) - A Pudgy-Cheeked Huge Lake , Tonle Sap Lake, Siem Reap, Cambodia (January 23, 2006) 
 トンレ・サップ湖は、カンボジアの北西部にある東南アジア最大の淡水湖であ る。トンレサップ湖はメコン川の支 流で結ばれており、雨期と乾季で10メートルほども上下するメコン川の水位に連動して伸縮するという、世界でも類をみない湖だ。メコン川の水量を調節する 巨大な調整池のような役割を果たしている。私が勝手に新しく世界遺産を一つ指定できる とすれば、間違いなくトンレ・サップを選ぶ。こんなにユニークな自然の湖、世界中みても他にない。


79.アンコール観光都市の日常(カンボジア・シム リアップ) - Backstage of Angkor Tourism, Siem Reap, Cambodia (December 31, 2005) 
 シムリアップは世界遺産であるアン コール遺跡がある観光都市だ。人口10万人ほど町に年間100万人を越える観光客が世界中から押し寄せている。とはいえシムリアップは、ごく普通の地方都 市でもある。マーケットには夕方から人が集り、旬の果物や 野菜を買い求め、町には子供をつれたお母さんがこどもを日向ぼっこさせていたりする。そんな普通な町・シムリアップを見てみようと、カメラをもって歩いて みた


79.のどかなるアンコールの 村々から(カンボジア・シムリアップ) - From Tranquil Villages of Angkor, Siem Reap Province, Cambodia (December 23, 2005) 
 アンコール遺跡は、大小様々、年代的にも 600年以上離れた数十の遺跡群から成り立っている。それらの遺跡は数十キロの範囲に広がる農村に散在している。アンコールの村々は、いわば遺跡と共に暮 らす農村である。稲作や畑作をする村も多いが、農閑期にはおみやげ用に工芸品を作ったり、町に売りに行くための農産品を作ったりしている。農村の人達は概 して人懐こく、観光者にも優しくしてくれる。車をしばらく止めて、農村に足を踏み入れて見るのも楽しい。


76.アンコールの幻の石橋― スピアン・プラプトス(カンボジア・カンポンクダイ) - Spean Praptos, the Shadowy Stone Bridge of Angkor, Kampong Kdei, Cambodia (October 23, 2005) 
 シムリアップから国道6号線を南西に 60kmほどいったところに、スピアン・プラプトスがある。目印は9つの頭を持つコブラ、ナーガだ。道の両側の橋詰にある4つの。橋は堂々と体 躯を横たわらせていた。同時代のアンコール遺跡と同じく砂岩が表面に張られ、欄干は砂岩を円筒状に切ったものを柱で支えている。機能と美感をあわせもっ た、素晴らしい橋だ。800年あまりの時の流れに耐え、今まだ現役の道路橋である。文明の原点を感じさせる。


71.人は平和に暮らし続ける (カンボジア・プノンペン) - Life Goes on Peacefully, Phnom Penh, Cambodia (July 16, 2005) 
 カンボジアはある意味で不幸な国だ。 1970年代から内 戦が続き、大虐殺 が繰り返され、戦火にまみれた国土には地雷が溢れた。ようやく1990年台の半ばに和平条 約が結ばれ、カンボジアには平和が訪れた。それでもカンボジアは不幸な歴史 を背負って生きていかざるを得ないのだろうか。人々のもつイメージが簡単に抜けないことは知っているが、もうすこし平和で活気のあるカンボジアの現実を 知っ てもらいたい。いつまでも虐殺と地雷の国では、カンボジアも浮かばれない。


69.天女の舞・クメール舞踊 の研究―カンボジア - Dance of Angels - A Research on Khmer Dance, Cambodia (April 23, 2005) 
  アンコール遺跡には王宮の髪飾りをつけ花をもった舞姫をかたちどった彫像が見られます。天女・アプサラの舞がクメール舞踊の起源です。ポルポト時代に伝統 も途絶えそうになりましたが、パリ和平の後、王室や芸術関係者らが記録や記憶から復元してきました。プノンペンやシムリアップには現在、復興し たクメー ル舞踊を見られる場所がいくつかあります2003年、カンボジア王 朝の舞踊は人類の口承及び無形遺産としてユネスコの世界遺産に指定されました。


67.アンコールの聖なる山― プノンクーレン・カンボジア - Phon Kulen, the Sacred Mountains of Angkor, Cambodia (April 9, 2005) 
 アンコール遺跡群から北へ40kmほど行ったあたりに山 と川に囲まれた遺跡プノンクー レンがあります。クーレン山はアンコールの平原を潤すシムリアップ川の源流で、山を縫う ように清らかな水がほとばしる渓流が流れ、あちこちに滝があります。そして源流の川が信仰の対象になったのか、川底におびただしいシヴァ神やリン ガの彫り物がされてます。アンコールの全盛期から500年くらいも前に王座が置かれた場所です。


62.クメール絹織物の島―カ ンダール州ダック島・カンボジア - An Island of Khmer Silk, Dach Island, Kandal, Cambdia (January 29, 2005) 
 ダック島、別名「シルクアイランド」。プノン ペンから国道6号線を北へ15分ほど行った辺りからフェリーで行きます。ダック島は、メコン川の中州の島です。この島はクメールシルクの産地として知ら れ、島の住民の大半は伝統的な金糸を使った模様があるシルクの反物や、クロマーと呼ばれる実用的な綿の布を織って生計を立てています。こうした伝統産業が もうすこし高く売れて、村々の経済を潤せるようになるとよいのだが、と思い ました。


56.プノンペン・ゲストハウス通り物語(カンボジア) - Story of the Guest House Street, Phnom Penh, Cambodia (November 6, 2004) 
 カンボジアを旅するバックパッカーが一度はお世話にな るのが「93通り」。ゲストハウスの他に、お腹いっぱい食べさ せてくれるレストランやにぎやかなパブ、旅行会社、インターネットカフェ、両替やなどが軒を並べている。外国人が多いことを除けば、93通りは都会の中の いなか道という風情だ。プノンペンで最大のボーンカック湖畔のカ フェかる夕陽を眺めながらアンコール・ビールを飲む。バックパッカーだけに独占されたくない、プノンペンの最高の有暮れ時の過ごし方だ。


55.穏やかなる僧侶のくらし・プノンペン(カンボジア) - A Clement Life of a Buddhist Monk, Phnom Penh, Cambodia (October30, 2004) 
  カンボジアは信心深い小乗仏教の国だ。毎朝6時ころから僧侶たちは町にでて托鉢する。托鉢で得られる食物を午前中に食したあと、午後以降は一切の食物を口 にしない。妻帯もしなし、女性に触ることさえ禁忌である。お金も施しを受けるのみで、商売をすることもない。そんな素朴な僧侶の生活を垣間見ることになっ た。信者の恵みのみに頼る素朴で穏やかなる暮らし。ゆったりとした時間が流れていた。


54.未来の国際ビーチリゾート・シハヌークヴィル(カンボジア) - An International Beach Resort in Future, Sihanoukville, Cambodia (October 25, 2004) 
 カンボジアのシャム湾に面した海沿いの町、シハヌークヴィル。最近カンボジアの新しい 国王が指名されたが、シハヌークという名前はシハヌーク国王に由来する。シハヌークヴィルは カンボジアで唯一の本格的な港がある、戦略的に重要な町でもある。それだけではない。シハヌークヴィルには真っ白くサラサラの砂が広がる美しいビーチがあ る。近い将来は国際ビーチ・リゾートに変貌するかもしれない。あなたも、まだ静かなビーチをひとり占めしてみては いかがだろうか。

11.カンボジア−自然に抱かれて - Cambodia − In the Hert of Nature (November 1, 2003) 
 カンボジアはモンスーンの国、自然の恵みが農業国カンボジアの基礎です。経済発展が遅れているという面も ありますが、自然の恵みに頼るナチュラルでオーガニックなカンボジアの農村部の風景をレポートしました
10.カンボジア−市場は生きる喜び - Cambodia − Market is the Pleasure of Life (October 25, 2003) 
 私は市場が好きです。どの国にいっても、まず市場に寄るようにしています。市場には活気があり、売る人は仕入れたものを売り切るぞという意気込みが感じ られます。
 カンボジアは最貧国の一つですが、それでも市場には活気が満ちています。首都プノンペンには、大小の市場が合計10箇所以上あります。そして驚くほどモ ノが安い。カンボジアの市場に、人々の生きる喜びをみました。


7.も う一つのカンボジア - Another Side of Cambodia (October 11, 2003) 
 カンボジア、というと内戦、虐殺、地雷といったネガティブなイメージが思い浮かぶかもしれない。それは仕方のないことではある。しかし今のカンボジアは 違う。2000年を境にしてカンボジアの治安は見違えるほど改善した。首都プノンペンを歩くと、たくましく日々を生きる人々、笑顔の絶えない人々がいる。 辛く苦しい過去を忘れ去ることはできないが、過去を悔やむけでは現在は生きられない。新生カンボジアは着実に今日を、そして明日を生きている。


ベトナム − Vietnam

164.元気いっぱいの港町―ダナン(ベトナム) - The Powerful Port City, Danang, Vietnam (Sempember 7, 2008)
 
南北に細長いベトナムのほぼ中央にダナン市はある。16世紀までは、少 し南にあるホイアンが交易の中心地で、ダナンは小さい港町にすぎなかったが、船が大型化する一方、ホイアンは川砂がたまって航海がしにくくなってくると、 深い海に恵まれたダナン港が栄えるようになった。 19世紀末にフランスがインドシナ半島を統治下におき、20世紀初頭からダナン市はベトナム中部の主要な都市として町づくりがなされることとなった。だか ら今でもダナンにはフランス風の建物が少なくない。美しい海と長く白いビーチ、緑豊かな丘陵地に恵まれ、最近は観光プロモーションをしている。日本人観光 客もいないわけではないがそれほどでもない。のんびりとビーチや 古都をたのしむヴァカンスには最適です。


154.アジアが交わる古い町並み―ホイアン(ベトナム) - An Old Crossroad of Asia, Hoi An, Vietnam (May 24, 2008) 
 
ベトナムは南北に細長い国だ。その中 部にはダナン市があって、その近くに、フエとホイアンという二つの歴史的な町 がある。今日紹介するのは、その一つホイアンだ。ホイアンは、南シナ海からちょっと入り江を入った奥にある町で、16世紀以降、ポルトガル人、オランダ 人、中国人、日本人が交易のために来航した。日本からも朱印船も訪れており、日本人町さえもあったという。旧市街の中央部にある、来遠橋と呼ばれる橋があ る。石造の基礎の上に木造の屋根付きの櫓が載っている。言い伝えによれば、これは日本人が建設したといわれる橋だ。他にも中国人の立てた会館や旧家なども あって、アジアの文化が溶け合う坩堝(るつぼ)のようだ。散歩するには楽しい町だ。

150.エネルギー充満の街角―ハノイ(ベトナム) - The City with Full Blast Energy, Hanoi, Vietnam (April 19, 2008) 
 
ぼくのベトナムの印象というのは、一口でいうとせせこましいというか、悪くいえばずるがしこい。タクシーでもよく小銭がな いからといってつり銭をくれな かったり、お店では外国人と見ると値段をふっかけてきたり。しかし、今回久しぶりに行ってみると、ベトナムは鷹揚に構えていた。昔のようなせせこましさは 感じられず、むしろ若いエネルギーがむんむんとするような 感じを受けた。町は二輪車にまたがった少年少女が行 き来しているし、歩道にひろげた露天の屋台では若者がスイーツを食べている。それで、今回は若いエネルギーに満ちた町を取ってみようと思って町を歩いてみ た。うまく撮れたかどうか


118.建築探訪―ハノイ旧市街(ベトナム)Architechtural Journey, The Old Town of Hanoi, Vietnam (February 10, 2007) 
 
ハノイは11世紀以降、李朝の都として華やかな歴史の表舞台を歩いてきた。 いったんは都の座をフエに譲るも のの、19世紀後半、インドシナ一帯がフランスに占領されると、ハノイは再び仏領インドシナの中心地として栄えることとなる。南北ベトナムに分裂したもの の、ベトナム戦争を経てさらに統一ベトナムの首都となった。こうした歴史の積み重ねがあるから、ハノイにはさまざまな時代のさまざまな様式の建築が混在し ている。今日は、ハノイの旧市街の真ん中にあるホアンキエム湖をぐるりと大きく回って、いろいろな建築を眺めてみよう。「建築探偵」というと某先生に怒ら れそうなので、建築探訪とよぶことにする。それでは出発!


64.迷宮の街、36通り―ハノイ旧市街(ベトナム) - A Labyrinth of 36 Streets, The Old Town of Hanoi, Vietnam (March 5, 2005) 
 
ハノイ市の中心、ホアンキエム湖の 北東の辺りが旧市街である。その歴史は1000年にも及ぶ。この旧市街は一般に36通りと呼ばれる。それぞれの通りが一つの産物を扱う店の集まった通り だったのだそうだ。それぞれの通りが仕入先である、ハノイ近郊の農村との親密な関係をもっていたそうだ。路地の隅で何を発見できるか、その探索の楽しみが 36通り歩きのスリルだ。迷宮の雑貨を見て歩くというのがハノイ観光のメニューとしてこれほど人を楽しませるとは、意外といえば意外だ。


60.技術者エッフェルゆかりのロンビャン橋・ハノイ(ベトナ ム)- The Long Bien Bridge Associated with Engineer Eiffel, Hanoi, Vietnam (January 3, 2005) 
 
ベトナムの首都、ハノイには北東側を紅河(ホン河)が流れる。ホン河に架かる橋のうちで最も 古い橋がロンビャン橋である。 ロンビャン橋の設計者がエッフェル塔を築いたエッフェルであるという説があるが、時代の状況などからエッフェル自身がロンビャン橋の設計に関わった という根拠は薄いと私は思っている。それはともかく鉄の骨組みを組み上げる「トラス」という 構造は、それこそ エッフェルなど19世紀末の技術者たちが得意とした工法だ。そのハノイのロンビャン橋を歩い た。


40.海の民の都−ニャチャン(ベトナム) - The City for the People of the Sea- Nha Trang, Vietnam (June 26, 2003) 
 
ベトナムの中南部にニャチャンとい う町がある。この町に滞在したのは、もう10年ほど前のことだ。朝の浜辺には漁船が溢れ、漁獲を陸揚げしていたり、網の手入れをしてりする 光景がみられる。当然、魚市場には漁船の帰る午前中に採りたての魚介が並ぶ。ニャチャンには海の民・チャム族が築いたチャンパ遺跡もある。海の民の町、 ニャチャンを歩いた。

 
39.改革・開放ドイモイ 政策のベトナム−ホーチミン&ハノイ - Vietnam under Doi-Moi Reform and Open Door Policy -  Ho Chi Minh City and Hanoi, Vietnam (June 19, 2003) 
 
ベトナムが、改革・開放政策である「ドイモイ」を進めているさなかの1991年から 1995年にかけて、何度かベトナムを訪問した。町を歩いてみると、しかし、たくましくも楽しそうに暮らす人々がいた。ベトナム人は勤勉だ という見方があるとともに、いやいや彼らは小賢しいといった正反対の意見もある。そのいずれもが国づくりに励み、経済の発展に乗り遅れないように一生懸命 生きる彼らの実像なのかもしれない。

フィリピン − The Philippines


74.現代に生きる新モノ好きのマニラ(フィリピン) - A Modern Town, Manila, the Philippines (August 27, 2005
フィリピンは東南アジアでは珍しい英語の通じる国。そうしたこともあっ て、フィリピンの首都 マニラは東南アジアでも有数の都市に育ったのだが、マルコスの独裁政治やその後の政治的な不安定もあり、今ではバンコクなど他のアジアのメガ・シティーと はだいぶ水をあけられた感がある。それでもやはり、モダンで新モノ好きのマニラは昔ながら変わらない。コンピュータやゲー マー、郊外都市、ライブハウスなど、マニラの現代的で新モノ好きの一面を追いかけた。

50.貧しくも、とても陽気な人々・マニラ旧市街(フィリピン) - No rich, but they are very cheerful, Old Manila, the Philippines (September 18, 2004)
 
マニラの旧市街を歩いて 人々を 撮った。旧市街は今のマニラでは裕福な地区ではない。むしろ客観的にいえば、メガシティーマニラの貧困地区の一角にあると言ってもよいだろう。それでも 旧市街でみかけた人々や皆、やたらに明るい。カメラを向けるとまずは笑顔、そして思い思いのポーズ。写真を撮ったあとに「ありがとう!」と言われる、この くすぐったいような明るさ。

49.いつくしみ深き町・マニラ旧市街(フィリピン) - The Beneficient Old Town, Manila, the Philippines  (September 11, 2004)
 
フィリピンにはずっと縁 がなかったが、今年になって2度、行く機会があったマ ニラには、近代的な大都市であるが、同時に歴史をよく残した町でもある。マニラの発祥の地はイントラムロスと呼ばれる歴史地区、16世紀後半にスペインが 築いた城砦都市である。今回はイントラムロスとその周辺に広がるビノンド、キアポといった古い町並みを歩くことにする。

インドネシア − Indonesia

87.様々な都市の景色を求め て―ジャカルタ・メンテン(インドネシア) - Looking for Various Urban Scenes, Menteng, Jakarta, Indonesia (March 25, 2006) 
 
ジャカルタには縁があっ て度々行くのだが、最近は常宿をミッドタウンとでもいうべきメンテン地区にしている。この界隈はコタ地区が水質汚染などで住みにくくなったために郊外に開 かれた新開地で、18世紀から19世紀にかけて建造された建物が多くあり、町歩きが楽しい。ある日曜日、宿を出て町を歩いた。不思議で怪しげな道案内にも 恵まれて、都市散歩を堪能することができた。夜は取っておきの、オランダ殖民風ディナー だ。バーも素晴らしい。


77.古きバタビアの町 ジャカルタ・コタ(インドネシア)  − Lanes in Old Batavia, Kota, Jakarta, Indonesia  (November 15, 2005
 ジャカルタに都市が作られたのは、オランダがアジア貿易を狙って進出した1600年 台の初めのこと。オランダ人たちは、もともと蛇行していたチウルン川を直線に直し、それを排水路のように使いながら町を築いていった。さらに周りに市壁を 築き、商人や現地の人たちはその外側に住まわせた。その市壁はその後に取り払われたが、その城都と城下の町が今のジャカルタ・コタ地区だ。コタ駅を中心に 1、2kmの円に収まってしまうこのジャカルタの歴史的地区を、今一度歩いてみた。


70.ラッフルズの愛した植物園の町・ボゴール(インドネシア) - City with The Botanical Garden, Beloved by Raffles, Bogor, Indonesia  (June 11, 2005) 
 
ボゴールはオランダ時代 の1745年、川の汚染などで環境が悪化していたバタビアから行政機能を一部移す目的で開発されたといわれ、総督府の別館が置かれ た。ジャワに派遣されたラッフルズはこの地を好み、大半の時間をここで過ごしたという。ボゴール植物園はラッフルズによって着手され、後にオランダ政庁に 引き継がれ、1817年にオープンしたものだ。植物園を歩くと、数百年におよぶオランダ支配や、短期間ではあるが多くの果実を残したイギリス支配を感じる ことができる。

52.歴史の町バタビアを歩く・ジャ カルタ(インドネシア) - A Walk into the Historical Batavia, Jakarta, Indonesia  (October 9, 2004
 
インドネシアの首都ジャ カルタといえば、アジアのメガシ ティーというイメージあるしかし歴史をさかのぼると、この都市はオ ランダ東インド会社がアジア貿易の拠点として築いた「バタビア」という都市がその原型なのである。車で走ってもほとんど気づかないが、注意深く路地をた どっていくと歴史都市の面影は意外にくっきりと残されている。今日はジャカルタのもう一つの顔である、歴史都市バタビアを歩いてみ ることにする。


53.商業都市の路地裏から・スラバヤ(インドネシア) - In the Back Alleys of a Commercial City, Surabaya, Indonesia  (October 16, 2004
 
ジャカルタに次ぐインド ネシア第2の都市、スラバヤは経済活動も活発な商業都市である。もちろんその商業を支えているのは近代的なビルに収まっているショッピングセン ターやさまざまな企業なのではあるが、足元を見ると路地に人が溢れている。こうした人々は消費や小売を支えていることも、また事実である。その路地を旧市 街と郊外の2箇所で歩いてみた。こうした路地に住む人々は決して裕福ではないが、なんとも明るく、楽しそうに暮 らしているのが印象的だった。



東アジア&日本 - Eastern Asia and Japan

韓国 − Korea

31.近くて遠い隣国・韓国ソウル - A Close but Distant Neighbor Nation; Seoul, Korea (April 3, 2004)
 
地図をご覧いただきた い。九州からは東京に行くよりも韓国の首都・ソウルの方が近い。ソウルは日本から一番近い外国の首都である。4年ほど前、中央アジアからの帰路、ストップ オーバーで一日の時間が取れたので、ソウルの町を歩いた。12月ということもあり、気温は氷点下10度、風もあったので、都市散歩には厳しかったが、初め てのソウルは刺激的だった。

台湾 − Taiwan

28.麗しき島の戦略拠点 台南(台湾)- The Strategic City on the Beautiful Island (Formosa),Tainan, Taiwan (March 6, 2004)
 
台南はオランダ東イン ド会社の中国進出を狙うアジアの拠点。ここからオランダ東インド会社は中国進出を窺がった。台湾海峡を望む台南の海沿いにはゼーランジャー城(1622 年)が、陸側には行政府となるプロヴィンシャー城が築かれた。オランダの足跡に加えて、古い寺院や仏閣が目を楽しませてくれる。台南は台湾にとって古都、 いわば日本の京都のような都市。台南の「今」をお楽しみください。

中国 − Chaina
 
173.近くにある「遥かなる町」―大連(中国) - The Far City that is Near, Dalian (People's Republic of China) December 21, 2008)
 
ぼくはこれまで中 国に1度しか行ったことがなかった。それも1991年のことだから、もう17年も経つことになる。それが、今年になって ちょっとした仕事が始まり、その関係で1週間だけだが中国にいけることになった。中国といっても首都北京ではなく、 渤海湾に面した都市・大連だ。大連という町は、帝政ロシアがシベリア鉄道の迂回路として東清鉄道の支線を敷いたことから発展する。その駅名が「遥か遠い」 という意味のダールニィで、それが転じて大連という名 前となったという。その遠い町・大連が、今は近い町である。日本から見ての話だ。成田から飛行機で2時間ほどで大連に直行できる。遠くて近い町、大連を駆 け足で回ってきました。またゆっくりと生きたいな。


27.幾千年の大都 北京(中国) - The Great City of Thousands of Years, Peking, China (February 28, 2004)
 
中華人民共和国の首都、北京。幾千年にわたって広大な中国を治める王朝 の都として繁栄した。街路は碁盤目状に整い、その中心は故宮(紫禁城)だ。北京は町中が「歴史博物館」のような都市だ。2008年にはオリンピックが開催さ れる。
  幾千年の大都、北京の今、お楽しみください


日本 − Japan

178.岡本太郎の芸術散歩―東京&川崎・日 本An Artistic Walk for Taro Okamoto, Tokyo & Kawasaki,Japan (April 4, 2010)
  岡本太郎といえば、日本を代表する芸術家の一人といっていいだろう。若いころに渡仏 し、ピカソと出会う。その後、沖縄の伝統文化や縄文土器にインスピレーションを得て作品製作に没頭する。直感的なインスピレーションや常識にとらわれない 自由な発想など、ピカソとどこか似通ったところがあったように思う。後年、大阪万博(1970年)のシンボルとなる「太陽の塔」を制作した。太郎の作品は どれもユニークで、楽しい。東京周辺にある太郎作品を見て歩いた。大阪には万博の時の「太陽の塔」があるのだが、これも一度見に行きたいものだ。。


171.緑の光と青い水―上高地・日本Green Light and Blue Water, Kamikochi, Nagano,Japan (November 30, 2008)
 上高地は長野県の松本市の西側、アルプス・穂高連峰への登山口にあたり、避暑地として も知られる。明治に英国人の宣教師 ウェストンが日本アルプスを紹介し、その後、昭和9年に国立公園に指定され、それを機にバスが河童橋まで乗り入れるようになった。戦後の経済発展の中でマ イカーが押し寄せるようになり、昭和50年にはマイカー規制を始めて、現在に至っている。だから、上高地にくには、マイカーを途中の駐車場において、バス で上高地に入ることになる。大正池あたりでバスを降りて、上流の河童橋に向かって歩いた。1時間ほどだろうか。道沿いには森が 茂り、小川が流れ、突然ちいさい沼が現れたりする。河童橋というのは木製の橋で、両側からワイヤーで引っ張っている。このあたりが上高地の中心部だろう か。上高地はいまでも日本を代表する国立公園だ。


170.トリック・アート大家とお雇い技術者 ―福井県三国・日本 - Master of Trick Art and Advisory Engineer, Mikuni, Fukui,Japan (November 9, 2008)
 福井県三国。昔から北前船の寄港地として栄えた港町だ。九頭龍川の河口にある。ここを 訪れたのは、 明治期にデレイケなどとともに明治政府が治水の先進国オランダから招いた土木技術者エッセルが、三国にエッセル堤と呼ばれる突堤を築いたからだ。このエッ セルという人は小学校も設計している。残念ながらその建物は後に取り壊され てしまうのだが、1981年に再建された。その頃だったと思うが、設計者のG.A.エッセルが日本でも有名な騙し絵(トリックアート)の大家M.C.エッ シャーのお父さんであることが解ったのだ。三国は往時の繁栄を偲ばせるように、見事な洋館や木造建築があり、町歩きが楽しい個性的な町だった。


130.東京がコンクリート・ジャングルだって?―東京・日本)Who Said Tokyo is a Concrete Jungle? Tokyo,Japan (August 26, 2007
 東京は大都会、コンクリート・ジャングルだという。確かに上を向けば高層ビルはニョキ ニョキと空に届くくらいに聳えているし、下を見ればアス ファルトとコンクリートで草の根が入りこむ隙間さえもない。そう、東京は大都会、正真正銘のコンクリート・ジャングルかもしれない。しかし本当にそうだろ うか。実は東京には意外と自然がたくさんある。早春なら菜の花、春は桜、そして新緑。夏には陽射しをさえぎる暑い緑陰が、そして秋には紅葉が色づ く。東京ってそんなに自然がゆたかだったんだ。気づいていないだけなんですよ、ね。


107. トーキョーの秋・なぜこう心惹かれるのだろう?―東京・日本)- Autumn in Tokyo - Why Does It Seem So Inviting?, Tokyo,Japan  (October 29, 2006)  
  ジャズの名曲に「ニューヨークの秋」という曲がある。秋の訪れの軽い興奮と期待を主題にしている。ふと、トーキョーの秋はどうだろうと思った。日本の秋 は、いつもそこはかとない寂しさとともに、短調の調べで語られるからだ。秋の色づく木々を見ようとするなら、わざわざハンドルを握ることもない。都心の大 きな公園、たとえば新宿御苑に行けば、そ こはもうオータム・ワンダーランドなのだ。大きな水辺があって、色 づいた紅葉の大木の彩りが水面に映える。都心で紅葉、お手軽にして豪華、こんな贅沢、黙っていられません。


104. 大人の休日@若者の町―渋谷・原宿(日本)- Holiday in Youngster's Town, Shibuya & Harajuku, Tokyo,Japan  (September 24, 2006)  
 
東 京の中心部、山手線の渋谷から原宿にかけては若者の町として知られる。原宿は昔、歩行者天国(略してホコ天)の若者のグループが、たいてい竹下通りで仕入 れた衣服や古着を着ていたことから有名になった。最近は表参道ヒルズなどのニュースもあって、話題に事欠かない。この町をぶらぶらと歩いてみよう。大人の 休日@若者の町というわけだが、どうしてなかなか町に溶け込むというわけにはいかない。自分がその場所に属していないという感覚、変な場所に迷い込んでし まったような感じがする。


86. 大都会の素顔―東京・赤坂麹町界隈(日本) - Real Faces of Metropolis, Akasaka & Kojimachi, Tokyo,Japan (March 18, 2006) 
 
  赤坂といえば、東京のお洒落な都会、というイメージがある。ホテルやオフィスが立ち並び、素敵なレストランや カフェがある町―それもひとつの赤坂だ。もうひとつの顔は、といえば、社寺が多い古くからの町、ということかもしれない。都会と古い町がひとつに 共存しているところが楽しい。
坂を上がったところは麹町、江戸時代は旗本たちのお屋敷町だった。清水谷公園やお堀沿いの散歩道(今は閉鎖中)など、大都会のまんなかにしては不思議と自 然が豊富だ。



81. いにしえの寺町 東京・谷中(日本) - The Old Temple Town, Yanaka, Tokyo,Japan (January 6, 2006) 
 
谷中という町は寺町として栄えた。一般に東京の下町といえば川沿いの低地をい うことがおおい。谷中は地理的には低地とはいえないが、雰囲気としてはまさしく東京の下町の風情だ。谷中には文学者や芸術家にまつわる旧跡が多く、休日に は町歩きをする人やグループで賑わい、外国人の訪問者も少なくない。谷中は今や、東京の古き寺町の代名詞になったといっても過言でないのかもしれない。


75. 富士は日本一の山 箱根・湯河原・熱海(日本) - Mount Fuji is the Supreme Mountain, Hokone, Yugawara & Atami,Japan (October 9, 2005) 
 
冬の晴れた日には、東京の都心からも富士山の姿が遠く西の彼方に望まれる。そ の富士を拝みに箱根に出かけた。まっすぐに立ち上がり、殆ど回転対称な姿、そして麓から頂上に至る双曲線のような美しいフォルム。このような完璧ともいえ る姿の山が他にあるだろうか。東海道新幹線に乗っても、あるいは飛行機に乗っても、富士山が見えると得をした気分になり、見えないと損をしたように感じ る。姿を見るだけで嬉し楽しくしてくれるのが富士山だ。富士山はやはり、日本一の山だ


43. 北海道開拓の玄関口 小樽(日本)- Otaru - the Historical Gateway to Hokkaido Exploration, Japan (July 17, 2004) 
 
小樽は、明治から大正時代にかけて港・運河や鉄道が 建設され、北海道開拓の玄関口として繁栄する。小樽運河沿いに100を越える石造の倉庫が立ち並んだのもこの頃だ。今は運河もその役割を終えたが、昔のま まの姿で残された運河に面した石造りの倉庫群が今はレストランやカフェ、ショップに改造され、小樽の新しい魅力を作っている。小樽は観光都市に生まれ変 わった。


42. 幽玄なる山里  秩父(日本)- Chichibu - In the Divine Mountains,Japan (July 10, 2004) 
 
埼玉県西部、秩父。私 にとって秩父は特別な場所である。なぜなら秩父は私の生まれ故郷だから。歴史的には武蔵と甲州をつなぐ「秩父往還」という 街道が通り、関所が設けられた場所でもある。江戸時代には観音信仰と結びついた札所巡りが流行した。機会あるごとに秩父に足を運んだ。首都圏からわずかに 2時間ほどの秩父は、古くからの人間の営みが作り出した幽玄な霊気を感じさせる。


29.琉球王国の城都・首里 沖縄(日本) - Shuri - the Capital Town of Ryukyu Kingdom (Okinawa),Japan (March 13, 2004)
 
沖縄はいまでこそ日本の一部であるが、古くから琉球 王国として独立した国を形成していた。琉球の文化には中国や、あるいは一部には韓国の影響も見られる。その琉球王国の城都が置かれたのが首里(しゅり)で ある。那覇市の中心部から東へ3キロほどの丘陵地である。首里城を含む、『琉球王国のグスク及び関連遺産郡』は2000年、世界遺産の登録された。東アジ アとの交易によって栄えた琉球王国の城都・首里を歩いてみた


41.1000`南の東京都 小笠原諸島(日本) - The Ogasawara  Islands - One Thousand Kilometers South of Tokyo,Japan (July 3, 2003 
 
10 年ほどまえ、この小笠原諸島に何度か通った。小笠原に行くには東京港から客船・小笠原丸に乗る。午前中に竹芝桟橋を出発して一昼夜、翌日の午後に船は小笠 原諸島の主島・父島に到着する。空港はない。帰りは同じ船の復路で帰るので、いったん出発すると約1週間は戻れない。小笠原の魅力は、何と行っても、その 自然だ。コバルト色の海、白い砂浜、亜熱帯の森林、不思議な樹木。運がよければザトウクジラやイルカを見ることもできる。季節によってはトビウオが飛び交 い、ウミガメが産卵する

. 東京・一日観光 (日本)- Tokyo One Day Essential Tour,Japan (July 25, 2004) 
 
東 京は日本の首都。私も小学生のころから東京やその郊外に住んできたし、学校や会社もずっと東京にあった。だから見慣れた都市であって、自分自身が駐在員症 候群に陥り、東京の景色にあまり興味を覚えない。これではイカンと思い、時々「はとバス」に乗った気分で東京観光をしてみたりする。東京タワーや皇居、浅 草やお台場、そして新宿。なーんだ、東京も面白い。



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