キリストは、ユダヤ教が自分を捕縛し、あるいは磔にするであろうことさえも予測して、それでもエルサレムに上 がってきた。当然、周りにはそれを止めようとして者もあっただろう。自らの受難が神の教えを確かなものにすることを予見されていたのだろう。その茨の道 は、ごく普通の石畳の道だ。お土産店が軒を並べる。